れは決してあるを得ないことです。
 例の花の師匠のような女は、この神尾の先代の寵愛を受けたお妾だったので、今は暇を取って、町に住っている。「院号や何かで通るよりも本名のお絹が当人の柄に合ひます」と書いてあるが、大抵な旗本衆は、先代の妾なんぞは、相当な手当をやって暇を出すのが当り前です。この女は髪を切っていますけれども、院号などを呼ばれるというのは、旗本の妾でありましたならば、当主を産んだ人でなければ、そんなことはない。通りがいいから本名のお絹でいるんじゃない、旗本の妾で、女の子や次三男を産んだのでは、みんなそういうふうになるのです。本人の好みでそういうふうにしているんじゃない。
 一〇六頁のところを見ると、神尾の屋敷内では、旗本の次三男が集って、悪ふざけをしている。こんなことはあったでしょう。けれどもここに出て来る女中の名が、「花野」とか、「月江」とか、「高萩」とかいうように、皆三字名だ。旗本なんぞの奥に使われている女どもは、大概三字名でないのが通例であった。
 一一六頁になると、新徴組の話が出てくる。『大菩薩峠』が新徴組のことを書いたので、これ以来皆が新徴組のことに興味を持つようにな
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