る出入口へは行かないようになっているはずでもある。要するに作者は、大名生活も知らず、百姓生活もよく知らないから、こんなことを書くのでしょう。
 五六五頁になると、お銀がお君に向って、「まあ、お前、三味線がやれるの、それは宜かつた、わたしがお琴を調べるから其れをお前の三味線で合せて御覧」と言っている。気取った生活をしている人間なら、「三味線がやれるの」なんていう、野卑な言葉を遣うはずがない。しかしこれはもともと百姓なんだから、身分のない娘とすれば、そういうふうに砕けた方がいいかもしれないが、それにしてもこれは砕け過ぎていて、甲州の在方の娘らしくない。それほど砕けたかと思うと、「お琴を調べるから」という。お台所のお摺鉢がおがったりおがったり式だ。おの字の用例を近来の人はめちゃめちゃにしている。めちゃめちゃにしているのではない、御存知ないのであろう。すべてのことを差しおいて、この短い会話だけ眺めても、一方では琴におの字までつけるに拘らず、一方では「やれるの」と言う。一口にいう言葉のうちに、これだけ品位の違ったものが雑居している。百姓の娘が増長して、悪気取りをして、こういうむちゃくちゃをいった
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