朝廷に人もあつたらうに、遠國に居る佐世に命ぜられたのは、目録の事たる十分學問の力があり、書籍の性質から、學派の源委異同まで飮込んで居る人でなければならぬので、其爲めに佐世を煩はせられたのもつまり此方面の學者として當時比類なかつた事も分る。
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佐世が文學に精通して居た事は、台記によつて見ると其著述に古今集注孝經七卷[#「古今集注孝經七卷」に傍点]がある。台記の著者が此書を人から借るにつき、佐世の自筆本なればとて、世の寶物これに加んやと云つて居るので、學者として後世まで縉紳間に尊重された事が分る([#ここから割り注]台記康治五年四月十四日の條[#ここで割り注終わり])。
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さてこの見在書目録は、昔は大和國室生寺にあつたが、文政年間、狩谷掖齋の手に入り、塙忠寶がこれを縮寫して續群書類從の雜部に入れて居る。室生寺の原本は今帝國博物館にあるそうだからこれと見合はする必要はあるが、群書類從本でも一通り役には立つ。又室生寺本を其儘臨※[#「墓」の「土」に代えて「手」、第3水準1−84−88]したものを見たが字が大層間違つて居る。結局始めから讀み違へたものであつて、誤は原本にもあると思ふのである。この本については、東京圖書館に居られた中根肅治氏の精確な考證があるから([#ここから割り注]室生寺本日本現在書目録考[#ここで割り注終わり])、姑くこれに讓り自分は大體から論述せうと思ふ。
第一此書を見て先づ感ずるのは、この書が隋書經籍志に、酷似して居る事で、結局佐世の時代に正史で言はゞ、隋書が最新らしいから、それを眞似たのであらう。即ち分類名義及び其順序まで全然同じく、甚しきに至つては、書名の下にある割註まで一字も違はぬ處がある。其一例を言はゞ、孝經家のうちに、孔安國注孝經一卷を擧げ、割註に『孔安國注、梁末亡逸、今疑非古文』とあるが、これは全く隋志の注と同一で、一字の差異もない。つまり隋志を其儘寫したものである。若し強て兩書の同じからぬ點を云つたら、隋志に地理家[#「地理家」に傍点]とあるのが、佐世の方では土地家[#「土地家」に傍点]となつて居る。地理土地共に同じ事なれど、熟字としては地理の方が慥に雅馴に聞ゆる。折角隋志に據る積りなら、何故に此丈を改免たか譯が分らぬ。要するに原來が支那の經籍だから、致方ないとしても、目録編纂の事まで、一に
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