から、順序より云つたら隋書經籍志と舊唐書經籍志との間に入るべきである。さうして此書に著録されて居る書籍が二志にないこともあり、或る點より云ふ時は、隨分其足らざる所を補ふことが出來るし、又これによつて我國に支那から如何なる書が傳つて居たか、我國の學風が、本家たる支那の學風と全く同じかつたか否と云ふ樣な問題を解決するにも少なからざる便宜を與ふるのである。
 この書の作者は、誰も知る如く、藤原佐世と云ふ人である。其事蹟は大日本史文學傳にも出て居るが、式部卿宇合の裔で、父を民部大輔菅雄と云つた。佐世は初攝政基經の家司であつたが、貞觀中對策及第して、文章得業生に擧げられ、越前大掾に補せられ、累進して寛平三年には陸奧守となり、從四位下右大辨に至り、昌泰元年に亡くなつて居る。佐世は基經との關係について言ふべきこともあるが、茲では唯博洽の學者として置く。さて此書の編纂は何時であるかと云ふに、頭銜に正五位下行陸奧守兼上野權介とあるから、前に擧げた官歴から推すと、此書の寛平三年以後に成つた事が分る。つまり支那では唐昭宗の時代に當るのである。又この書が何故に編纂されたるかは、安井息軒なども云つて居られる通り、全く冷泉院の火災に本づいたのである([#ここから割り注]本書の末に跋文あり又息軒遺稿卷三に收む。[#ここで割り注終わり])。それは貞觀十七年正月廿八日の出來事で、祕閣の圖籍文書多く※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]燼となつた。三代實録に此事を記して、廿八日壬子。夜。冷然院火。延燒舍五十四宇。祕閣收藏圖籍文書爲[#二]灰燼[#一]。自餘財寶無[#レ]有[#二]孑遺[#一]。唯御願書寫一切經。因[#二]縁衆救[#一]。僅得[#二]全存[#一]。とある。又翌日の條にも火猶滅えざるを以て人を募つて消防させた事や、これを指揮したものが猛火に繞まれて燒死んだ事などを記載してある([#ここから割り注]三代實録卷二十七[#ここで割り注終わり])。また同書によると、この火災の爲め遠慮して祭祀を停止せられた事も載つて居る。兎も角非常の大火で、金匱石室の藏が一朝烏有に歸したのは誠に殘念である。
 そこで朝廷でも再かゝる火災があつてはならぬと云ふので、この事件後に於て、本朝に現存する書籍目録の編纂に心懸け玉ひ、態々陸奧に居る佐世に勅命が下つた譯で、其出來たのは冷泉院の火より十七年以後の事である。當時
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