る浮雲は、さながら筆洗《ひっせん》の中で白筆《はくひつ》を洗ったように棚曳《たなび》き、冴え渡った月は陳士成に向って冷やかな波を灌《そそ》ぎかけ、初めはただ新《あらた》に磨いた一面の鉄鏡に過ぎなかったが、この鏡はかえって正体の知れぬ陳士成の全身を透きとおして、彼の身体の上に鉄の月明《げつめい》を映じた。
彼は室外の院子《あきち》の中をさまよっていたが、眼の裡《うち》がすこぶるハッキリしてあたりは静まり返っていた。静まり返った中にわけもなくいざこざが起って来て、彼の耳許にしっかりとした、せわしない小声が聞えた。
「右へ廻れ、左へ廻れ」
彼は伸び上って耳を傾けるとその声はだんだん高くなって
「右へ廻れ」
と言った。
彼は覚えていた。この庭は彼の家がまだこれほど落ち目にならぬ時、夏になると彼の祖母と共に毎晩ここへ出て涼んだ。その時彼は十歳にもならぬ脾弱《ひよわ》な子供で、竹榻《たけいす》の上に横たわり、祖母は榻《いす》の側《そば》に坐していろんな面白い昔話をしてくれた。祖母は彼女の祖母から聴いた話をした。陳氏の先祖は大金持だよ。この部屋は先祖がお釜を起したところで、無数の銀が埋《うず
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