は革命の講義をする時、楊州十日《ようしゅうとおか》(清初更俗強制《しんしょこうぞくきょうせい》の殺戮)とか、嘉定屠城《かていとじょう》とか大口開いて言ったものだが、実は一種の手段に過ぎない。ひらたくいうと、あの時の中国人の反抗は亡国などのためではない、ただ辮子《べんつ》を強いられたために依るのだ。
 頑民《がんみん》は殺し尽すべし、遺老は寿命が来れば死ぬ。辮子はもはやとどめ得た。洪《こう》、揚《よう》(長髪賊の領袖《りょうしゅう》)がまたもや騒ぎ出した。わたしの祖母がかつて語った。その時の人民ほど艱《つら》いものはない。髪を蓄えておけば官兵に殺される、辮子を付けておけば長髪賊に殺される。
 どれほど多くの中国人がこの痛くも痒くもない髪のために苦しみを受け、災難を蒙り、滅亡したかしれん」
 Nは二つの眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って屋根裏の梁を眺め、しばらく思いめぐらしてなお説き続けた。
「まさか髪の毛の苦しみが、わたしの番に廻って来ようとは思わなかった。
 わたしは留学に出るとすぐに髪を切った。これは別に深い意味があったわけでなく、ただこれがあると何かにつけて
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