、わたしがちょっと見て来ましょう」
 母が出て行くと門外の方で四五人の女の声がした。わたしは宏兒を側《そば》へ喚《よ》んで彼と話をした。字が書けるか、この家《うち》を出て行きたいと思うか、などということを訊いてみた。
「わたしどもは汽車に乗ってゆくのですか」
「汽車に乗ってゆくんだよ」
「船は?」
「まず船に乗るんだ」
「おや、こんなになったんですかね。お鬚がまあ長くなりましたこと」
 一種尖ったおかしな声が突然わめき出した。
 わたしは喫驚《びっくり》して頭を上げると、頬骨の尖った唇の薄い、五十前後の女が一人、わたしの眼の前に突立っていた。袴も無しに股引穿《ももひきば》きの両足を踏ん張っている姿は、まるで製図器のコンパスみたいだ。
 わたしはぎょっとした。
「解らないかね、わたしはお前を抱いてやったことが幾度もあるよ」
 わたしはいよいよ驚いたが、いい塩梅にすぐあとから母が入って来て側《そば》から
「この人は永い間外に出ていたから、みんな忘れてしまったんです。お前、覚えておいでだろうね」
 とわたしの方へ向って
「これはすじ向うの楊二嫂《ようにそう》だよ。そら豆腐屋さんの」
 おおそう言われると想い出した。わたしの子供の時分、すじ向うの豆腐屋の奥に一日坐り込んでいたのがたしか楊二嫂とか言った。彼女は近処《きんじょ》で評判の「豆腐|西施《せいし》」で白粉《おしろい》をコテコテ塗っていたが、頬骨もこんなに高くはなく、唇もこんなに薄くはなく、それにまたいつも坐っていたので、こんな分廻《ぶんまわ》しのような姿勢を見るのはわたしも初めてで、その時分彼女があるためにこの豆腐屋の商売が繁盛するという噂をきいていたが、それも年齢の関係で、わたしは未《いま》だかつて感化を受けたことがないからまるきり覚えていない。ところがコンパス西施はわたしに対してはなはだ不平らしく、たちまち侮りの色を現し、さながらフランス人にしてナポレオンを知らず、亜米利加《アメリカ》人にしてワシントンを知らざるを嘲る如く冷笑した。
「忘れたの? 出世すると眼の位まで高くなるというが、本当だね」
「いえ、決してそんなことはありません、わたし……」
 わたしは慌てて立上がった。
「そんなら迅《じん》ちゃん、お前さんに言うがね。お前はお金持になったんだから、引越しだってなかなか御大層だ。こんな我楽多《がらくた》道具な
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