と淋しさを現わし、唇は動かしているが声が出ない。彼の態度は結局敬い奉るのであった。
「旦那様」
 と一つハッキリ言った。わたしはぞっとして身顫いが出そうになった。なるほどわたしどもの間にはもはや悲しむべき隔てが出来たのかと思うと、わたしはもう話も出来ない。
 彼は頭を後ろに向け
「水生《すいせい》や、旦那様にお辞儀をしなさい」
 と背中に躱《かく》れている子供を引出した。これはちょうど三十年前の閏土と同じような者であるが、それよりずっと痩せ黄ばんで頸のまわりに銀の輪がない。
「これは五番目の倅ですが、人様の前に出たことがありませんから、はにかんで困ります」
 母は宏兒を連れて二階から下りて来た。大方われわれの話声《はなしごえ》を聞きつけて来たのだろう。閏土は丁寧に頭を低《さ》げて
「大奥様、お手紙を有難く頂戴致しました。わたしは旦那様がお帰りになると聞いて、何しろハアこんな嬉しいことは御座いません」
「まあお前はなぜそんな遠慮深くしているの、先《せん》にはまるで兄弟のようにしていたじゃないか。やっぱり昔のように迅ちゃんとお言いよ」
 母親はいい機嫌であった。
「奥さん、今はそんなわけにはゆきません。あの時分は子供のことで何もかも解りませんでしたが」
 閏土はそう言いながら子供を前に引出してお辞儀をさせようとしたが、子供は羞《はずか》しがって背中にこびりついて離れない。
「その子は水生だね。五番目かえ。みんなうぶだから懼《こわ》がるのは当前《あたりまえ》だよ。宏兒がちょうどいい相手だ。さあお前さん達は向うへ行ってお遊び」
 宏兒はこの話を聞くとすぐに水生をさし招いた。水生は俄に元気づいて一緒になって馳け出して行った。母は閏土に席をすすめた。彼はしばらくうじうじして遂に席に著《つ》いた。長煙管を卓の側《そば》に寄せ掛け、一つの紙包を持出した。
「冬のことで何も御座いませんが、この青豆は家《うち》の庭で乾かしたんですから旦那様に差上げて下さい」
 わたしは彼に暮向《くらしむき》のことを訊ねると、彼は頭を揺り動かした。
「なかなか大変です。あの下の子供にも手伝わせておりますが、どうしても足りません。……世の中は始終ゴタついておりますし、……どちらを向いてもお金の費《い》ることばかりで、方途《ほうず》が知れません……実りが悪いし、種物を売り出せば幾度も税金を掛けられ、元を削っ
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