ら、フランボーは四人ぐらいの男を一人で引受けられるはずだから。しかし、そのフランボーは一向に引上げて来る様子はない。いや、それよりも怪しい事は、いつまでたってもポウルや警官が姿を見せないことだ。水面には筏《いかだ》さえ、否《いな》棒切れさえも浮んではいなかった。名もない河沼の離れ小島に、彼等はあたかも太平洋上の孤巌《こがん》に取残されたように絶縁されているのだ。
ブラウンがこんなことを考えている間に、劔戟《けんげき》の音がせわしくせまってカチャカチャという急調に早変りを始めた。公爵の両手は空に放たれ、相手の切尖が彼の背面、左右肩胛骨の中間にヌット顔を突出した。彼は子供が横翻筋斗《よことんぼがえり》[#「横翻筋斗」は底本では「模翻筋斗」]をうつのを半分でやめるような恰好に幾度か大きくキリキリ舞をした。劔《つるぎ》は流星のように彼の手からはなれて、遠くの川にもぐり込んだ。そして彼|自身《じみ》は大地をふるわしてドシンと倒れた。その拍子に大きな薔薇の木が押潰され、赤土が煙のように空に舞上った。シシリア人はかくして彼の父の霊に血のしたたる犠牲をささげた。
坊さんはすぐさま死体の側《そば》に駈寄った。が要するにもはや死骸に相違なかった。彼がなおもしやという望《のぞみ》なき望にひかされて死体をしらべていると、その時初めて遥かなる川上の方から人声がきこえて来た。そして一艘の警察船が、数人の警官、役人や、そして昂奮しているポウルをも乗せて、矢のように船着めがけて走って来た。坊さんは怪訝に堪えないむずかしい顔をして立上った。
「フン、何ぞそれ」と彼は独言《ひとりご》った。「何ぞそれ来たること遅きやじゃ!」
七分も経つと、その島は村人や警官等で一ぱいとなった。警官等は決闘の勝利者を引捉《ひっとら》えて、型の如く、この際愚図々々いうとためにならんと云いきかせた。
「我輩は何も云いたくない」アーントネリは平静な顔で云った。「吾輩はもう何んにも云わん心算《つもり》だ。吾輩は非常に幸福だ、吾輩はただ死刑に処せられるのを待つばかりだ」
それから彼は口を堅くつぐみさま、警官等の引立《ひった》てるがままに身体を任した。彼はその後で訊問を受けた時「有罪だ」とただ一言叫んだきり、また口を緘《かん》して語らなかったという事は不思議ながらも確かな事実である。
師父ブラウンは思いもよらぬ庭の人だかりや、殺人者の拘引される光景や、警察医の検屍のすんだ後死骸を取片づける光景などをじいと見ていた、何かある醜い夢がそのまま姿を掻消すのを見守るもののように、彼は夢魔に襲われた人のようにジッと立すくんだ。彼は証人として住所姓名を名乗った、が、陸地へ行くならと舟を勧める者があるのを謝絶した。そして島の花園の中に立って、押潰された薔薇の木や、何とも名状しがたい突嗟の悲劇の緑なす全舞台面に眼をこらして見入った。夕闇は川面にはらばい、霧が蘆そよぐ岸辺にほのぼのと立《たち》のぼった。塒《ねぐら》におくれた烏《からす》が三つ四つと帰りを急ぐ。
ブラウンの潜在意識(これがまた非常に活躍した)の中には何やらまだ説明のつかぬものが不思議にありありとこびりついていた。この感じは朝から彼の意識を離れなかったものだが「鏡が島」についての幻想だけではどうしても説明のつきかねるものがあった。彼は何んだか自分が見たものは現実の光景ではなくして、競技か仮面舞踏会のようなものに思われもした。けれども、しかし、遊戯のために突殺されたり死刑に処せられようとする者もないはずではある。
五
彼は船着の石段に腰かけながら独り物思いに耽っていたが、折しも上流の方から一つの細長い、黒《こく》ずんだ帆が薄光りに光る川面を下って来るのに気がついた。そして彼はばねのように飛上った。が、感激の反動で泣出さんばかりに胸が込み上げて来た。
「フランボー!」
と彼は叫びさま、幾度も幾度も友の手をとって堅く握りしめた。驚いたのは釣竿を以て岸辺に上って来たフランボーだ。
「フランボー! アア、やっぱり君は殺されはしなかったのじゃ!」
「なに、殺されるですと? 一体どうして私が殺されるんです?」と釣客は非常におどろいてくりかえし言った。
「なぜって、わし等は今少しで一人残らず殺されるところじゃった」相手はいくらか乱暴な口調で云った。「サレーダイン公爵は殺され、アーントネリは殺してくれという。アーントネリの母親は気絶する。もうわしは生きた心地もなかったがな。しかし、有難いことに、君も無事であった」そして彼は狐につままれたような顔付をしているフランボーの腕を取った。しばらくして二人は船着場をあとにして例の屍の下《もと》に来た。そして朝初めて着いた時の様に一つの窓から室内をのぞいてみた。
ランプがつけられてすっかり部屋支度がととのっているのがたちまち彼等の眼をとらえた。食堂の食卓にはサレーダインの仇敵《かたき》が島をめざして一陣の突風のように来襲した時既に晩飯の用意が出来ていたのだ。そこで今晩飯が嵐の後の凪のように平和に食われつつあるのだ、家政婦のアンソニー夫人はむっとしたような面持で食卓《テーブル》の足のところにしゃがんでいる。ポウルは御家老様然として美味を食らいかつ美酒を飲みつつあるのだ。夢みるその碧眼はおどろな色をただよわし、面窶《おもやつ》れのした様は何とも名状しがたいほどだが、満悦の気色はつつみかねたと見えた。覚えずその様に腹に据えかねたと見えてフランボーは窓をガタガタガタ鳴らしながらこじあけた。そして義憤に燃えた頭を明るい部屋にスット差し込んで「オイオイ」と呶鳴った。
「なるほど君もつかれただろうから静養を要するのは無理がない。ただ主人が庭に殺されておろうという際に主人の物を横取りするとは実に怪しからんじゃないか?」
「吾輩は愉快なるべき長の生涯の間に莫大な財物を横取りされたんじゃ」怪しい老人はかっとしたように答えた。「この晩食は拙者が横取を免れた無けなしの財産の一つじゃ。フン、この晩食とこの家と庭だけが、どうやら拙者の手に返ったんじゃ」この言葉によってフランボーは何事か思いついたと見えて、顔を輝かした。「では何かサレーダイン[#「ン」は底本では「レ」]公爵が遺言でも」
「わしがサレー[#「ー」は底本では「ン」]ダイン公爵だ」老人は巴旦杏《はたんきょう》をもりもりと頬張りながら云った。
その時まで鳥の飛ぶ様を見ていた師父ブラウンは弾丸にでも打たれたように思わず飛上った。そして蒼白になった顔を窓に突込んだ。「君はなに、何じゃと」と彼はキイキイ声をはり上げて訊返した。
「ポ[#「ポ」は底本では「ボ」]ウルまたはサレーダイン公爵、いずれとも御意のままにじゃ」やんごとない老人がシェリ酒の杯を唇に持って行きながら叮嚀な口調で云った。「わしはここで召使の一人として天下泰平に暮らしているものじゃ。そして謙遜の意味で、吾が不幸なる弟ミスター・スティーフンと区別をするためにミスター・ポウルと名乗っている。じゃが弟はつい最近、左様あの庭で歿《なく》なったと聞いた。もちろん、敵がこの島まで追撃して来たところで俺が悪いのではない。悲しい事に、弟の生活があまりに自堕落であったからじゃ、あの男は家庭生活に向く男ではなかった」こういって彼は口を閉じてそのまま彼の足元にうなだれている女の頭の真上にあたる壁をジット見つめた。戸外の二人はこの老人を殺されたスティーフンと面だちが似ているのを見て、さては[#「は」は底本では「わ」]と思った。
やがて老人の双の肩が高まって、咽喉《のど》がむせでもするようにブルブルとゆすれた。が顔の表情は少しも変らなかった。
「ヤッ畜生笑っていやがる。」としばらくしてフランボーがこう叫んだ。「どれこの辺で帰るとしようか」といった師父ブラウンの顔は全く青かった。「なあフランボー君早やくこの地獄屋敷を退散しよう。もう前の正直な舟が恋しくなったよ」二人が島を漕出た時、夜の暗黒の幕は既に岸辺の川面にたれ下っていた。
[#空白は底本では欠落]二人は闇の中を川下へと下った。二人のすう二つの大きな葉巻《シガー》が舟の中で紅色の舷灯《げんとう》のように燃えた。師父ブラウンはその葉巻《シガー》をちょっと口から取ってこう云った。
「まあフランボー君もはや君にもこれで話しの始終が解ったと思うが、つまりだね、筋はとても簡単なんだ。一人の男が二人の敵を持っていた。その男は悧巧でなあ、えいかね、それでつまり、敵が二人いるのは一人しかいないより結句|幸《さいわい》だという事を発見しおったんじゃ」「どうもはっきりしませんなあ」とフランボーが答えた。
「いや、深く考えるから駄目じゃて。いいか極めて簡単なんじゃ、もっとも、ちと無邪気ではないがな。あのサレーダイン兄弟は揃も揃ってろくでなしなんじゃ。しかし公爵、すなわち兄の方が上の方へ[#「へ」は底本では「え」]上がる、ろくでなしなら、弟すなわち大尉は底の方へ沈むろくでなしなんじゃ」
「大尉は零落の揚句、乞食や強請者《ゆすりもの》のまねもした。そしてある日兄公爵をうまくとっちめた。これが、公爵にとっては運のつきだったんだ。平たく云えばスティーフンは文字通りに兄の頸に綱をかけたのじゃ、彼はどうかした拍子でシシリヤ事件の秘密をかぎ知った。ポウルが山中で老アーントネリを虐殺した顛末をお恐れながらと訴出ることの出来得る男となった。大尉はせしめた口笛金で十ヶ年も放埓の限りをつくして、最後に公爵のすばらしい財産もどうやら阿呆臭く見えるまでになった。
「けれども、公爵はこの吸血鬼のような弟の外に今一つの重荷をになわんければならなかった。彼は老アーントネリの息子が殺害事件の当時はホンの幼児にすぎなかったが、だんだん長ずるにおよんで、野蛮《やぼ》なシシリヤ式の道義一点張りの教育で訓練された結果、親の仇《あだ》を、それも絞首台上へ送ろうとはせず昔風に復讐の剣によって、復讐せんために生きとると云う事を知った。少年は剣道を学んでその技神に達したが、もうこれでいよいよという年頃になるとサレーダイン公爵が旅に出た事を新聞で知った。公爵は事件にあらわれた犯人のように逃げはじめた。いかんせん、身は腹背に敵を受けておったのじゃから、アーントネリの追跡をくらまそうとその方に金を使えば使うほどスティーフンの方の鼻薬が薄くなる。弟の方の鼻薬を余計にしようとすればアーントネリ[#「リ」は底本では「ル」]の備えが薄くなる。いいかね、彼が偉人となったのは、そしてナポレオンのように天才を発揮したのは、この時だったんじゃ。
「彼はもはや二人の敵と戦うことをやめて、突然彼等の軍門に降った、彼は日本の力士のいわゆるウッチャリの手のように一とねり体をひねったんだ。ために、両個の敵はもろくも彼の前にのめった。すなわち彼は世界を舞台としての競技を断念し、青年アーントネリには隠れ家を白状しまた弟スティーフンには何もかも引渡したんじゃ。彼はスティーフンに流行の着物をととのえかつ楽な旅のよう出来るだけ金を送って添手紙には簡単に書いてやったんだ。
『これがのこった全部だ。御前は兄を丸裸にした、ただノーフォーク州にしっ素な家があるだけだ、もしこの上も御前が俺から何《な》にものかを絞り取る気なら、この家《や》を取る外はあるまい。望むなら来て占領した方が好い。俺はここに御前の友人なり支配人なりとしてひっそり生活するであろう』
「彼はかの青年シシリヤ人が彼等兄弟の肖像画は見たであろうが、まだ顔は知らないという事を知っておった。兄弟が共に尖った胡麻塩髯をつけておって、幾分似通っている事も知っておった。そこで彼は髯を綺麗に剃落してアーントネリの出現を今か今かと心待ちに待っていた。陥穽が成功した。弟は新調の衣裳にくるまって公爵顔をしながら大手をふって乗込んで来たのが運のつきでついにシシリヤ人の剣に倒れたんじゃ。
「しかし彼の細工にただ一つけっ点があった。それはしかしこの人性のためにかえって名誉としなければならない、サレーダイン如き悪人は往々にして『人の性や善
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