サレーダイン公爵の罪業
THE SINS OF PRINCE SARADINE
チェスタートン Chesterton
直木三十五訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)撓舟《かいぶね》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|蘆の家《リードハウス》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+云」、第3水準1−14−87]
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一
フランボーがウェストミンスターにある彼の探偵事務所の仕事を一月休んだ時に、彼は撓舟《かいぶね》のように小さい、一艘の小型の帆艇《ヨット》に乗って旅に出た。東部諸州の小さい川を通った時、それはあまりに小さいので、ちょうど魔法船が陸の牧場《ぼくじょう》や麦畑の中を帆走《はし》って行くように見えた。舟は二人乗として快適なものであった。そして必要品を置くに足るだけの場所のみで、フランボーはそこに自分の哲学から割出して必要と考えた品々を蓄えていた。それ等は四つの主要部分に分類することが出来た――食いたい時の用意として鮭の鑵詰《かんづめ》、まさかの場合の用意として装填された何挺かの短銃《ピストル》、気が遠くなるようなことがないとも限らんというので一罎《ひとびん》のブランデー酒、それからヒョコリ死なないともかぎらないというので一名の坊さん。この軽い荷物を積載して彼はノーフォーク州の小川から小川へと、最後には『広沢《ブロード》』地方(英国東部にて河水が湖のようにひろがりたる所)へ達するようにゆるゆると廻って行った、行く行くあるいは水郷の庭園や牧場、あるいは河水に姿をうつす館や村落の画《え》のような景色を賞し、またあるいは池沼幽水《ちしょうゆうすい》に釣糸を垂れて、岸辺に道草をくいながらの旅であった。
真の哲人のように、フランボーはこの旅行に決して目的を持たなかった。が、真の哲人のように、理由を持った。彼は一種の半目的を持った。それが成功すれば、旅楽に錦上《きんじょう》花《はな》を添えるべきものとして彼はその目的を重大視してはいたが、また失敗しても旅楽を傷つけはしないだろうと考えていた。昔年、彼が犯罪界の王としてまた巴里《パリー》において最も有名な人物として、彼はしばしば多くの讃辞やまたは謝辞、否《いな》恋文さえ受取った。その中に一つ、何等の理由なしに彼の記憶をとらえるものがあった。それは英吉利《イギリス》の消印のある封筒に名刺が一枚封のしてあるきりの簡単なものだった。名刺の裏には緑色のインキで仏文でこう書かれてあった。『もし貴下が職を退《しりぞ》かれて堅気となる事でもあらば、某《それがし》をお訪ね下されたし、某は貴下とお会ひしたき心なり、現代のあらゆる立派な人物にはもはや会ひつくしたれば貴下が探偵をまきて見当違ひの逮捕をなさしむる手際にいたりては、仏蘭西《フランス》史における最も光彩ある場面ならんか」名刺の表には型の如く「公爵サレーダイン、|蘆の家《リードハウス》、|蘆の島《リードアイランド》、ノーフォーク州」と印刷されていた。
その当時彼はこの公爵のことを深く気にかけてはいなかった。公爵は南|伊太利《イタリー》で有名な社交家だということを知る以上には。彼は若い時にある上流社会の夫ある女と駈落ちしたとの事であった。しかし、駈落ぐらいはこの社会にとってさのみ驚くべきことではなかったが、それに附随して起ったある悲劇のためにこの事件はなかなか世人の記憶から忘れられぬものとなった――侮辱をうけた夫がシシリー島の絶壁の上から身を投げて死んだと云われる自殺事件であった。公爵はその時しばらくヴィエンナに滞在していたが、近年は始終旅から旅へと暮していたように見えた。しかしフランボーが公爵自身のように欧羅巴《ヨーロッパ》をすてて英吉利《イギリス》に定住《じょうじゅう》することになった時、彼はノーフォーク州の広沢《ブロード》地方に住むその名士を突然訪問しようと思い立つに至った。彼はその場所を実際|探《たず》ね当るかどうか、それはフランボーにも見当がつかなかった。そして全く、それは人の知らない片田舎ではあったけれども彼はその場所を予期していたよりは早く見出したのであった。
彼等は一夜、丈なす雑草や短い刈込樹に蔽われた堤防の下《もと》に舟を舫《もや》った。昼の力漕《りきそう》のために眠りが彼等に早くやって来た。そしてまだ暗いうちに眼が醒めた。厳密に云えば、まだ夜のあけぬうちに起出でたのだ。なぜなら大きなレモン色の月が、今やっと二人の頭上に丈なす草の葉影に沈んで、空はまだ夜色を帯びつつも、すがすがしい菫青色《きんせいしょく》に輝いていたからである。二人は思わず、小供時代の憶出《おもいで》に耽った、丈なす雑草が私達の上に森の如くにひろがる時、私達は小鬼《エルフィン》の踊るを見るようなちょっと冒険的な気持になる、二人はそんな気持にも浸るのであった。大きな月に対してすうっと立つ雛菊は実際巨大な雛菊に見えた、またたんぽぽも巨大なタンポポに見えた。なぜかそれは彼等に子供部屋の腰羽目の壁紙を憶出させた。河床がひろいため、二人は凡《すべ》ての灌木や草花の根本よりズッと下方にあったので、仰向いて草を眺めるような形になった。
「やれやれ、まるで仙郷《せんきょう》へでも来たような気がする」とフランボーが云った。師父《しふ》ブラウンは舟の中にすわったまま真直になって十字をきった。彼の動作が余りにだしぬけだったので、相手はどうかしたんではないかと訊ねたほどだった。
「中世の民謡を書いた人々は」と坊さんが答えた。「仙女のことについては君よりもよく進んでいる。仙郷だからとて結構なことばかりあるわけのものではないでな」
「いやそんなことはない!」とフランボーが云った。「こんな淡い月の下では結構なことばかり起るものです。私はこれから大変に躍進して何が飛出すか一つ見ましょう。こうした月やまたはこうした気持にまためぐり合う前に、徒《いたず》らに死に朽ちてしまうかもしれませんからなア」
「それは御もっともじゃ」とブラウンが云った。「わしは何も仙郷へはいるが必ず悪いとはいわん。ただ必ず危険ではあると云うまでの事じゃ」
彼等は晴々するような流れを静かにさかのぼった。空の菫がかった日光と白金色《はくきんしょく》の月は次第にうすれて行った、そしてかの黎明の色を前触するような渺々《びょうびょう》たる無色の天地に変って来た。赤や金色や灰色の淡い筋がはじめて地平線を涯《はて》から涯まで劃《かく》した時、彼等は川上に横《よこた》わっている町や村かの大きな黒影を見た。万物の姿が目に見えるおだやかな薄明が訪れる頃には、彼等はこの川添《かわぞい》の小村の橋や屋根の下に来ていた。家々は低く屈むような長屋根をいただいていて、巨大な灰色や赤ちゃけた色の家畜が河へ水を飲みに来るように見えた。やがて黎明が刻々と広がり明るくなって、勤勉な朝となった時には彼等は静かな町の荷揚場や橋の上に人間でも家畜でも一々指さす事が出来た。やがて彼等は今しがた沈んだ月のようなまんまるな顔付をした、そしてその下部の弧に赤い頬鬚を光線のように発射させた一人のおだやかな、福々しいシャツ姿の男が、ゆるやかな流の上に上ってる柱にもたれているのを見た。フランボーは揺れる舟の中にいきなり背丈一ぱいに立上りさま、その男に『|蘆が島《リードアイランド》』もしくは『蘆《あし》の家』を知っているか、と訊ねた。福々した男の微笑はかすかにひろがった、そして彼はただ川上のうねりの方を指さした。フランボーはそれ以上話す事なしに前方へ進んだ。
舟は草深いうねりを幾つか曲り、蘆の繁ったヒッソリした岸を幾つかすぎた。そして場所探しがようやく単調になろうとする頃彼等は特に角度の深いうねりを廻って、静かに湛《たた》えた池といおうか湖水といおうか、とにかくその風景に思わず見惚《みとれ》ざるを得ないような場所へ出た。広い水面の真ン中に灯心草《とうしんそう》に四面をかこまれた細長い平たい島が横わっていて、島の上には竹もしくは熱帯産の強い藤で編んだ細長い平たい家が立っていた。縦に竹をならべた四壁は薄黄いろく、屋根の傾斜をなす竹の列は茶褐色を呈しているので、その細長い家は何よりも単調に見えることを免れた。朝早い風は島をめぐる蘆の葉をザワザワとそよがせ、この不思議な家に触れて巨大な蘆笛のようにピーピーと鳴った。
「やあー!」とフランボーが叫んだ、「とうとうここが目的地か! あれがいわゆる『|蘆が島《リードアイランド》』だな。あれがいわゆる『蘆の家』だな。頬鬚を生やした肥った男は、仙人だったに違いないな」
「まアそんな所かな」と師父ブラウンが言った、「もし彼が仙人だったら、悪い仙人じゃわイ」
こう話しながらも気短かなフランボーは小舟をサラサラそよぐ蘆の中に乗入れていた、そして彼等は細長い奇妙な離れ小島の、珍妙な物さびしい家の傍に立った。
二
家は水を背にして立っているので、こっち側には船着の上り段があるきりだった。玄関は向側《むかうがわ》にあって細長い島の庭を見下《みおろ》している、二人の訪問者は低い檐《やぐら》の下に、ほとんど家の三方を縁どっている小径《こみち》について廻って行ったのである。三方にそれぞれ開かれた窓を通して彼等は同じように細長い明るい部屋をのぞいた。同じように壁にはたくさんの姿見をはめ込んだ板壁がはりめぐらされておった。そして軽食《ランチ》の膳立であろう、甘《うま》そうな品々がならべてあった。やがて正面の玄関口に廻ってみると、そこには二つの土耳古《トルコ》青色《せいしょく》の植木鉢が両側に控えていた。しばらくして出て来たのは陰気な型《タイプ》のひょろ長い、胡麻塩《ごましお》頭の気の浮かない、給仕頭で、その男のブツブツ云うところによると、サレーダイン公爵はこの頃ずーッと不在であったが、ちょうど今日まもなく戻って来るはずになっており、室内には彼の帰りを迎えそしてまた不意の来客を迎え支度もととのっているとの事だった。そこで例の公爵から貰った名刺を見せて自分が宛名のフランボーだというと給仕頭の羊皮紙色の陰気な顔にも生命《いのち》の浮動がほのみえて、身体《からだ》をブルブル震わせながらもいんぎんな態度でどうか御ゆっくりして行ってくれといった。「御前様はもうほどなくお戻りで御座います」と彼は云った「せっかくお招き申上げた御客様方にわずかのところで会えなかったとあってはさぞ御残念におぼしめすでございましょう。御前様の御※[#「口+云」、第3水準1−14−87]付で簡単な御食事を御前様と御来客様方の分だけいつでも御用意いたしてございますので、旦那様方にもぜひ差上げろと仰せられるで御座いましょうから御遠慮なく召上って下さいまし」
フランボーは好奇心にかられて、礼儀|正《まさ》しい態度でこの申出をうけた。そして儀式ばって案内されるままに、さきの細長い、明るい鏡板のはりつめられてある部屋へと、この老人に従って行った。室内にはこれといって目を惹くものがなかったが、ただ、細長い腰低の窓が幾つかあって、その合間々々が風変りにも同じく細長い腰低の姿見張りになっているので、部屋全体が調子の軽い、飄々たるものに見えるのだった。何となく庭で軽食《ランチ》を食っているような気がした。隅の方にはくすんだ肖像画が一二枚かかっていた。その一つは軍服姿の非常に若い青年の大きな写真で、今一つは赤チョークで描いてある、毛を垂れさげた二人の少年のスケッチ肖像であった。その軍人が公爵その人であるかとフランボーが訊いたのに対して、給仕頭は無愛相に、違うと答えた。それは公爵の弟に当たる陸軍大尉でステーフィン・サレーダインという人だと云った。がそれだけで老人はプイと口を閉じてしまって、話なんかしたってつまらんといったような渋い顔をした。
軽食《ランチ》の後で上等の珈琲《コーヒー》とリキュー酒の
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