振舞がすむと二人の客は庭と図書室とそれから家政婦――女は少なからざる威風を備えた、じみなしかし美貌の持主で陰府の聖母というような感じがした――とに紹介された。この女と給仕頭とだけが公爵が本国から連れて来た一族のうち残ったもので、現在家に居る外《ほか》の召使共はこの家政婦がノーフォーク州で新たに募集したものらしかった。家政婦はアンソニー夫人という英吉利《イギリス》名で通っていたが、話の中に少し伊太利《イタリー》訛がまじるところから、フランボーはアンソニーとは疑《うたがい》もなく元の伊太利《イタリー》名をノーフォーク流に呼んだものに相違ないと思った。ミスター・ポウル、それが給仕頭君の名であるが、これもまた幾分他国訛のまじるのが見える。が、しかし英語には実によく熟達していた、現代の貴族に使われる一粒|撰《えり》の召使達が多くそうであるように。
 小綺麗で絶品という感じはしたが、この屋敷には、皎々《こうこう》たる陰気さとでもいうような雰囲気がみなぎっていた。一時間が一日のように永かった。長い、体裁のいい窓のある部屋々々は明るさを一ぱいにはらんではおりながら、それは死のような翳《かげ》がこめていた。そして、チョイチョイした物音、話声、硝子器のチリンという音、召使達の足音、そうした物音に混って、二人の客人は家の四方に小歇《こや》みなくザワザワと流れる水声を聞くことが出来た。
「どうも廻り廻って悪い場所に来たもんじゃなア」と師父ブラウンが窓越しに灰緑色の葦《よし》や銀色の川波を眺めながら云った。「しかし心配はいらんて。君子は悪い場所においても正《まさ》しい人間である事によって善い事が出来るものじゃ」
 一体師父ブラウンは無口な方でもあるが変なところに同情をする小男だ。そこでこの短いおそろしく退屈な時間の間に、彼はいつともなく、相手の専門探偵よりも深くこの|蘆の家《リードハウス》の秘密の中に想出を沈めていた。ニコニコした沈黙というものは世間話《よけんばなし》上手の秘訣ではあるが、彼はこのこつを好く呑込んでいた。で、今も彼は一語さえほとんど洩すことなく、この家で与えられた智識をもとにして出来る限りの推測をたくましゅうしていた。給仕頭は生来むっつり家であった。彼は主人に対して、ほとんど動物的な愛情を抱いている事を洩した。その云う所によると、公爵は非常に虐待されつつあるらしかった。その虐待の張本人は公爵の弟であるらしくその名を口にする時だけは、さすがにカンテラ形な老給仕頭の顎もグッと寸が延び、鸚鵡《おうむ》の嘴《くちばし》のような鼻にもフンといったような皺が走った。そのステフィーン大尉は手のつけられぬやくざ者で、何百何千という兄公爵の金を干した上、兄にせまって賑やかな社交界をすてて、この片田舎に隠遁させたのであった。これが給仕頭の老ポウルのしゃべった全部で、ポウルは明らかに公爵の味方であった。家政婦の方は前者の様にむっつりやでもなく不平家でもないらしい。ブラウンはこう思った。彼女が主人に対する調子にはどこかに酸味をもっているくらいのところだった。
 もっともある程度の畏敬を交えていないのでなかったが。フランボーと師父とが側《そば》の鏡の前に二少年を描いた赤いスケッチ画を見ていると、家政婦のアンソニー夫人が何か用事でもあると見えて、滑る様に部屋の中に入って来た。で師父ブラウンはふりむいてみる必要もなく、折柄この家の家族について二三の品評をしていたのを途中からばったりやめてしまった。がフランボーの方は顔を画《え》の中にほとんどうずめておったのでアンソニー夫人が入って来たのに気がつかずに既に大声で次のような事をしゃべっておった。「これはサレーダイン兄弟と見えますな、師父、二人共いかにも無邪気な顔附きをしている、いやこれではどちらが善人でどっちが悪人だかわからないて」とここまで話出した時彼は女が背に来ている事を知ったので後はいいかげんな雑談にまぎらわしながら庭の方へ出て行った。けれどもブラウンだけはなおも一心にその画に見入っていた。するとアンソニー夫人の方でも永いこと一心に師父ブラウンの姿を見ていた。
 彼女は大きな悲劇的ともいうべきな茶褐色の眼の持主である。その橄欖《オリーブ》色の顔は変に息苦しそうな驚きに燃え立っていた。この見知らぬ男はどういう素性の男だろうか、そしてまた何んの用があって来たのだろうと考えているように。してまた坊さんの法衣を見、宗派を知って故郷の伊太利《イタリー》で近づきになった懺悔僧のことでも想い出したのか、ただしはブラウンが連れの男よりも物識りらしいと見てとったのか彼女は小声で、その兄弟が揃って悪人だという事をしゃべり出した。「あの御連れ様のおっしゃる事は半分は確かに当たっておりますよ。あなた、あの方はこの兄弟はどちらが善人でどちらが悪人だか見別《みわけ》がつかないとおっしゃいましたが、本当に善人の方を見分けるのはむずかしいんでございますよ」
「はあ! わしには一向にわかりませんが」ブラウンはただこれだけ答えるとそのまま部屋を出ようとした。けれども彼女は一歩彼の方へ身を乗り出した、眉をひそめ、そして、牡牛《おすうし》が角《つの》を低めて身構でもするような獰猛な格好に身を屈めながら。
「いえ、当家には善人など一人もおりませんで御座いますよ」女は吐息を洩らしながら云った。「そりあ大尉さんにしても、お金をしぼりとろうとなさるのは、決して誉めた仕打とは言えませんが、とられる方の公爵様にしたって、そりゃア善くない点があるのでございますからね。何も大尉さん一人で公爵をいじめていらっしゃるんではないんです」
「強請《ゆすり》かな」という一語がつづいた。が、その時女はヒョッコリ肩越しに背後をふりかえってみて、今少しで倒れんばかりに吃驚したのである。その時|扉《ドア》がスーッと開《あ》いて、入口に蒼ざめた顔をした給仕頭のポウルが幽霊のように立っていた。場所は鏡の間である。さながら五人のポウルが五つの入口から一時に入込《いりこ》んだかのように、薄気味悪く思われた。
「御前様がお帰りあそばしました」と彼は云った。

        三

 その瞬間、一つの姿が第一の窓の外を通った、続いて第二の窓を通ると、その通行する鷲のような輪廓を幾つかの鏡が炎のように次々にとうつして行った。彼は姿勢が正しく、そしてすきがなかったが、毛髪には霜をおき、そして顔色は妙に象牙のように黄いろっぽい。鼻は禿鷹の嘴のような羅馬《ローマ》鼻で、一般の場合この鼻には附き物の肉のこけ落ちた長い頬と顎を型の如くに備えてはいるが、これ等の道具立ては半ば口髭でおおわれているのでいかめし気に見えた。その口髭は顎髯よりははるかに黒くて、幾分芝居じみていた。彼の服装は、これも同じく芝居がかりで、白い絹帽をかぶり、上衣《うわぎ》には蘭《らん》の花をかざし、黄色い胴衣を着、同じく黄色い手袋を歩きながらパタパタやったり振ったりしていた。やがて彼が玄関の方へ廻ると、鯱鉾《しゃちこ》ばって出迎えるポウルの扉《ドア》を開ける音や、帰着した公爵が、「ア御苦労々々今戻った」という声が聞えた。ミスター・ポウルは頭をさげながら、何事かヒソヒソと主人に答える様子であった。数分間は彼等の対話は聴取《きと》ることが出来なかった。が、やがてミスター・ポウルの「何事もあなたにお任せします」という声がきこえた。サレーダイン公爵はあいかわらず手袋をパタパタとたたきながら、来客達に挨拶するために機嫌のよさそうな顔をして部屋の中にはいって来た。彼等はもう一度かの薄気味悪い光景を眼にした――五人の公爵が五つの扉《ドア》からはいって来たのを。
 公爵は白い帽子と黄いろい手袋を卓子《テーブル》の上に置いて、すこぶる慇懃に手を差出した。
「これはようこそお越し下すった、フランボーさん」と彼が云った。「あなたの事はもうよう存じておりましてな――御令聞‥‥と申上げて失礼でございませんなら」
「いやその御心配には及びませんハハハハハハ」とフランボーは笑いながら答えた。「私は神経質ではないですから。しかし、とかく顕《あら》われんものは善徳ですよ」
 公爵は相手のこの返報が、何か自分の事を云っているのではないかと思って、相手の顔をチラリとぬすみ見た。が、やがて自分も笑い出しながら、一同に椅子をすすめ、自分も腰かけた。
「ちょっと悪くない場所でな、ここは」と彼はくつろいだ調子で云った。「格別珍らしいものと云ってはないが、しかし釣だけは全く名物ですよ」
 坊さんは嬰児のような生真面目な眼付をして公爵の顔に見入っていたが、何といって捕捉する事の出来ない隠微《かすか》な幻のようなものがちょいちょい頭の中で動めいた。彼は綺麗に分けた霜のような頭髪、黄味をおびた色白の顔、きゃしゃな、幾分めかした姿などに見入った。それ等は決して不自然という感じを与えるほどではなかったが、舞台裏の俳優の扮装した姿のように、何となくこってりしたあくどさがあった。名状しがたいような興味はむしろ他の点に、顔の輪廓そのものにあった。この顔の型はどこかで見覚えがあるようだなと思ったが、憶出せないので苛立った。誰か知らん、昔馴染の友達の着飾った姿のような気がした。
 公爵は愛嬌たっぷりな頓智のよい応待振りを発揮しながら、二人の客人の間に心を配って相手を外させなかった。探偵が娯楽が大好きで、大いに保養の実をあげたがっているらしい様子を見ては、フランボーやフランボーの持舟を居廻りの一番よく釣れる場所へ案内するかと思うと、二十分以内には自分だけ先きに自分用の撓舟《かいぶね》で帰って来て、読書室に居る師父ブラウンのそばへ行って、同じようにいんぎんに坊さんの好みの哲学談に話しを合わせるという風であった。彼は釣についても、書物についても、なかなか知識を持っているように見えた。後者の方はすばらしい開発振りを見せもしなかったが、彼は五六ヶ国語を操った。もっとも主として俗語ではあったが、彼は明らかに諸国の変った町々や種々雑多の社会に生きて来た。実際彼の最も愉快な物語の中には地獄のような賭博場、阿片窟、オーストラリアの山賊など、しきりに出没した。師父ブラウンも、かつて名高かったこのサレーダインが最近の数年を旅から旅へと過しつつあるということだけは知っていたが、その旅がかほどに外聞の悪い、もしくはかほどに面白いものだったとはさすがに思いもよらなかった。
 実際公爵は世の事情にたけた人としての品位はあるにはあっても、ブラウン坊さんのような感じの鋭敏な人の眼には、どうもそわそわした、一歩を進めて言えば信用の置けない調子のある人物として見えるのはしかたのない事である。なるほど彼の顔形はいかにもやかまし屋のようには見える。が、その眼光にはどうも荒《す》さんだところがある。彼は酒か薬品かで身体のふるえる人のような神経の傾きがちょいちょいと見える。そして家政上の問題には一度も手を染めたことはないらしい。家の内の事は何から何まで二人の年とった召使にまかせっきりで、殊に給仕頭の方はこの家にとっては大黒柱に相違ないのだ。実際ポウルは給仕頭というよりは一種の家令という方が適切で、もう一歩進んで云えば、侍従ともいいたいくらいである。食事の時にも表立ってこそ食べないが食卓の礼儀は決して主人公爵のそれに負けないのだ。下々の者等も彼をピリピリと怖がっているようだ。そして公爵が彼と相談する時でも、主従の礼儀だけは正しくやるが、どこかに傲慢なところが見えるのだ。むしろ、彼が公爵の法律顧問ででもあるような態度が見えるのだ。それに比べると、陰気な家政婦の方は、まるで日蔭の女である。実際彼女は給仕頭に対しては、己《おの》れを低く屈して、まるで彼の召使か何かのように見える。ブラウンは、彼女が最前公爵の兄と弟について自分に私語したようなあのような猛烈な調子は、あれきり爪の垢ほども聞くことが出来なかった。公爵がその弟大尉……今どこにいるのやら……のために果たしてどれくらいの金を取られたのやら見当がつかなかったが、サレーダイン公爵の様子に何とな
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