く胸に秘密をかくしているようなところを見れば、その話はいかにももっともらしく受取られるのであった。
公爵と師父ブラウンとが再び最前の細長い鏡の間に戻った頃には、水辺や岸の柳に早や黄昏の色が立罩《たてこ》めていた。そして遠くの方でごい鷺が小児の打出す豆太鼓のように、ポコボンポコボンと啼いていた。何となくもの哀れなそして不吉な仙郷を思わせるような妙な情調が、小さな灰色雲のように再び坊さんの心をかすめた。
「ああ、フランボウ先生、早やく戻って来てくれるといいんだがなあ」と彼は独《ひと》り語《ごと》をつぶやいた。
「時にあなたは災禍というものを御信じになりますか」と落着きのないソワソワした態度で公爵は唐突に訊いた。
「いや」とブラウンが答えた。「私は最後の審判日なら信じますがな」公爵は窓から身を起して様子ありげに相手の顔を見た。夕日にそむいて顔を薄暗くくもらせながら言った。「と御っしゃいますとどういう意味ですな。」[#「」」は底本では欠落]
「という意味は、この世に居る吾等《われら》は綴錦《つづれにしき》の裏側に住んでるようなもんじゃという意味です。どうもこの世に起る事というものは、全部の姿を現わしてはおらんもので、本当の姿はどこやら他の世界にかくれているものと思われますが、そうすれば悪業を身にもっているものはその他界で必ず悪果を受けることになるので善い。どうもこの世では途方もない人に悪果が廻り合せて来ますのじゃ」と、突然‥‥公爵は「ウォー」と、獣のような変な叫び声を発した。翳ったその顔には両眼がただならず輝いていた。そこでブラウンの頭にはある新らしい鋭敏な考えが忍びやかにひろがった。公爵が唐突に妙な声を出したり、顔を輝かせたりするには、どのような意味がこもっているのだろう。彼が果して正気であろうか、彼は社交家として自然な驚き方以上に「途方もない人に」「途方もない人に」と何遍も繰返した。
[#空白は底本では欠落]ブラウンはさらに第二番目の真理に気が着いた。
ふと前面の鏡の中をのぞくと、そこに扉《ドア》がスーッと開いていてポウルが例の通りの光沢の悪い無表情の顔をして立っているのを見たのだ。
「実は御早やく申上げました方が好かろうと存じまして」と彼は例によって年とった家庭法律顧問のようにいんぎんな態度で云った。
「ただいまボートが一双裏の船着きへ到着いたしましてございます、漕手は六人で、ともの方には御一名の紳士が御乗りの様子で御座います」
「えっボート」と公爵が繰返した。「何一名の紳士」と云いながらスックと立上った。
しばらく氷のような沈黙が続いた。ただ蘆のしげみで水鳥のキッキッという妙な啼声が聞えるばかりだ。そして誰も無言であったが、早や戸外には横顔をこちらへ見せた一人の男が夕日に輝くこの部屋の三つの窓の外をまわって、最前公爵が通過したように通過するのが見られた。が、彼とこれとは鷹の嘴式の段々鼻の外線が偶然似ている外にはほとんど共通点がなかった。
公爵の白っぽい絹帽にひきかえこれはまた旧式なというより外国式かと思う、黒の絹帽だ。帽子の下には果断らしく引しまった顎を青々と剃った若々しい、そして非常にきつい顔が控えている。ちょっと青年時代のナポレオンを彷彿せしめるような顔立ちだ。
それにまた、全身の拵《こしら》えがいかにも風変りに旧式なところがあって、その点で親譲りの型を変えよう等という神経の持合せのない男としか見えない。羊羹《ようかん》色のフロックコート、軍人がするような赤短衣《あかちょっき》、ヴィクトリア王朝の初期の流行で、現代にはいかにも不調和な白ちゃけた、粗末なズボンといった形だ。こうした古式蒼然たる拵えの中からオリーブ色の顔だけが妙に若々しく素敵に真剣らしく、またそっと立っていた。
「エッ糞ッ」と公爵がいった。そして例の白帽を力いっぱいひっ攫《つか》みながら自分で玄関へ出て行って夕日に照りはえている庭の方へとドアーを開け放した。
四
この時までにその到来客と従者の一隊は舞台に出る小人数の兵隊のように芝生の上に整列していた。六人の漕手はボートを岸に乗上げさせて、橈《かい》を槍のように押立てながら怖ろしい顔をしてボートを守っていた。どれもこれも色黒く、ある者は耳飾りをつけているが、その中《うち》の一人は若者の前方斜めに直立して、何やら見た事のない大きな型の黒い箱を捧げている。
「おう足下《そくか》がサレーダインだなあ」と若者が云った。サレーダインは鼻であしらうようにもちろんそうだ。と答えた。若者の眼は無表情な、犬の目のような茶眼で、公爵のギロギロと輝く灰色の目とはおよそ反対な眼だ。しかし師父ブラウンは、この顔の型をどっかで見覚えがあるようだなと思ったのだが、憶出せないので腹立たしくなった。
「もし足下がサレーダイン公爵なら申入れるが、吾輩の名はアーントネリだ」と若者がいった。「アーントネリ」と公爵がさも面倒くさそうに繰返した。「どっかで聞いたような名じゃ」「よく見知り置かれよ」と伊太利《イタリー》人が云った。
[#空白は底本では欠落]そして彼は左手で古代物のシルクハットを取り、右手で公爵の頬をいきなりビシャリとやったので、公爵の白帽が石段の上にコロコロと転がり、一つの鉢植がグラグラと揺れた。しかし公爵とても決して卑怯者ではない。いきなり彼は相手の頸ったまに躍りかかって、今少しで相手を芝生の上に突っ転がすところだった。が、敵はいそがしい中にも礼だけはくずさぬといった様な体の構えをしながら公爵の手をふりとった。
「それでよろしい」と彼はハアハアいいながらよく通じない英語で云った。「吾輩は侮辱をうけた。今その埋合せをしてやる。マールコーさあその箱を開けろ」
マールコーと呼ばれた箱持の家来が若者の前へ進み出て箱の蓋を開けた。そして中から※[#「木+覇」、第4水準2−15−85]《つか》も刀身も共に鋼鉄製のピカピカとひかった二ふりの細長い伊太利《イタリー》剣を取出して芝生にザックと突刺した。怪しい若者は黄いろい顔に凄いほど復讐の色をみなぎらせながら玄関口に面して立った。二本の剣は二本の十字架の墓標でもある様に芝生に立った。夕日はまだ消えやらず芝生を赫々《あかあか》とはでに染めていた。そしてごい鷺もまたしきりにボコポンボコポンと啼いていた。何かしら小さな、しかし怖るべき運命を予告でもしているもののように。
「サレーダイン公爵」とアーントネリと呼ばれる男が云った。「汝は我輩がまだ物心のつかぬ嬰児であった時、我が父を殺して我が母を盗んだ。しかし汝は我輩が今から汝を殺すように手際よくは父を殺さなかった。汝と我が迷える母とは父をシシリア島の人なき路に馬車を連れ出して、絶壁の上から突き落し、その足で高飛した。我輩もまたその手で汝を瞞し撃ちにしてもよいのではあるが、それはあまりに卑劣だ。我輩は世界の隅々まで汝を追廻した。しかし汝は巧みに姿をくらましおった。だが今や遂に世界の涯までいや、汝の涯まで到着したんだ。汝は既に我が掌中にあり。我輩は汝が決して我が父に与えはしなかった機会を汝に与える。いずれなりとこの剣を取れ」
公爵はしばし眉をしかめてためらう様に見えたが、殴られた耳の中がまだガンガン鳴っているのに気がつき、嚇《か》ッとして一歩前に乗出しながら、一つの剣をつかんだ、師父ブラウンもまた一歩前へ乗出して争いをとめようとした。が彼はたちまちにして、ここで自分が飛出したら事態はますます険悪になるばかりだろうと気がついた。サレーダインは仏蘭西《フランス》流の共済組合員でかつ極端な無神論者である。坊主の説法に耳を貸すような男ではない。更に相手はと見れば、これはまた坊主であろうとなかろうと、頭から人の意見に耳を貸しそうな男ではない。ナポレオン型の顔立ちと茶色の目とは、かの頑固一点張りの聖教徒よりも上手の頑固さをまざまざと物語っている。彼は地球の夜明け時代既に首斬役を開業していた人間のように見える――石器時代の人間――石の人間のような男だ。
ブラウンは、今は家内の者に急を告げるより外に方法がなくなった。それで彼は家《うち》の中へ駈込んだけれども今日は下々の者が給仕頭の許しによって陸地の方へ遊びに出払《ではら》っていることを発見した、そしてただ陰気な家政婦のアンソニー夫人だけがおどおどしながら部屋々々を駈廻っているのを見た。しかし彼女が蒼ざめた顔をブラウンの方へ向けた瞬間、彼はこの「鏡の家」の謎の一端が見破られたように思った。闖入者アーントネリの陰鬱な茶色の眼とアンソニー夫人(英吉利名のアンソニーは伊太利名のアーントネリ)の同じく陰欝な茶色の眼! 突嗟の間にブラウンはもう話の半分が読めたと思った。
「あなたの息子さんが来てじゃ」と彼は手取り早く云った。「そして息子さんが死ななくば公爵さんが死のうと言う瀬戸際じゃ、ポウルさんはどこに居るかな?」
「あの人は裏の船着きにおります」女は力なげに云った。「あの人は‥‥あの人は‥‥今|救《すくい》を求めているのです!」
「アンソニー夫人」とブラウンは真顔になって、「この際、阿呆気《あほげ》な事を云っとられますまい。[#「。」は底本では欠落]わしの連《つれ》は今釣に行って舟がなし、あなたの息子さんの舟は御家来共が番をしている。あるのはあの橈舟ばかりじゃ。ポウルさんはあんなもんでどうしょうというのです?」
「聖母《サンタ》マリア! 私は存じません!」こう答えるなり彼女は気を喪《うしな》ってござ張りの床の上にバタリと卒倒した。
ブラウンは彼女を抱き起して長椅子にねかせて、水瓶の水をそそぎかけて助けを呼んだ。彼は更に家を飛出して裏の船着きに出てみた。が、一双しかない橈舟はすでに中流に出ていて、老ポウルが年齢に似合ぬ力を出しながら川上の方へ急がせつつあるのであった。
「私は御前様を御救い申すのです。まだ間に合います!」その眼は気狂《きちが》いのように光っていた。
師父ブラウンは今更どうする事も出来ずに、舟が上流の方へ※[#「あしへん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》き行くのを眺めつつ、ただ老人が早く例の村へ急を告げてくれるようにと祈るばかりだった。
「どうも決闘などとは善うないこっちゃ」と彼はむしゃくしゃした埃色の頭髪を撫でながら云った。「しかし、この決闘は、ただ決闘としても場違いのようじゃ。どうもわしは心からそう感ぜられてならんが、しかしどうにもならん!」
そして彼はゆらめく鏡のように夕日に照映える川波を見つめていると、島の向うの岸からある微かなしかしまぎれもない音が響いて来た――劔々相摩《けんけんあいま》する音だ。彼はうしろを振り向いた。
細長い島の遥かなる岬のような端、薔薇の花壇の向側の芝生の禿げたところに、二人の決闘者は早や劔《けん》を合していた。二人は上衣を脱いで[#「で」は底本では「て」]いるが、サレーダインの黄色い短衣《ちょっき》と白髪頭、アーントネリの赤短衣と白ズボンはぜんまい仕掛の踊人形の色彩のように、夕日の中にきらめいていた。二つの劔《つるぎ》は切尖《きっさき》から※[#「木+覇」、第4水準2−15−85]頭まで、二本のダイヤモンド留針《とめばり》のように光っていた。
ブラウンは一生懸命に走った、彼の短かい足は車輪のように廻った。けれども彼が格闘の場に到着した時はすでに余りに遅くもあり、また余りに早くもあった――橈にもたれてこっちを睨まえつつある家来共の監視の下に、決闘を中止させるには余りに遅く、またその悲惨なる結末を予見するには余りに早かった。なぜといって二人の力量は不思議なほどに互角で、公爵は一種の皮肉的な自信を以て覚えの腕を振いつつあるに対し、アーントネリは殺狂的の用心を以てふるいつつあったからだ。目まぐるしい火花の出そうな激しい手並の内がいつまで経っても優劣をつけがたいので、ブラウンも思わずホット息をついた。その内にはポウルが警官隊を連れて戻って来るに相違ない。それにフランボーが釣から帰って来てくれれば大いに頼みになるのだ。肉体的に云おうな
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