なり』と云う真理に目が届かん故《ゆえ》意外の失敗をやるのだ。彼はシシリヤ人が乗込んで来たら相手を夜中にナイフで刺殺すか、または垣の後から射殺するかして、どっちにしろ一言も音を出さぬように殺すに相違ないと信じておった。がアーントネリが武士の礼を重んじて偽公爵のスティーフンに正式の決闘を申込んだ時のポ[#「ポ」は底本では「ボ」]ウルの慌て方といったらなかった。
わしはその時彼が舟に乗って逃出したのを見た。
「けれども、いかに彼は慌てても決して希望はすてなかった。彼は山師のスティーフンの気象もよく呑込んでおれば、熱狂児のアーントネリのコツもよく知っておった。だからして、山師のスティーフンが、芝居の一役を演ずる愉快さやら、すわり心地の悪くない俄か公爵の待遇に対する恋々たる執着心やら、悪漢に似つかわしい糞度胸のよい運試し根性やら、剣術にかけての自信やらからして本当の事はまさか打ち明けないと安心しきっておったんだ。更に熱狂児のアーントネリについては、彼もまた堅く口を緘して家の昔語りを他言する事なく、死刑に処せられるであろうと云う事を信じておった。そのためポウルは決闘が終結をつげるまで河中にいてぐずぐずしておった。で見るまに村に急を告げ、警官を同道し、二人の敵が永遠に連行《つれゆ》かれるのを見て、うまくいったとにこつきながら飯を食いおった次第じゃよ。」[#「」」は底本では欠落]
「フン、彼奴《きゃつ》めあんなに笑いやがるとは」とフランボーは、身慄いしながら云った。「でも師父、全体そんなに大それた智慧は悪魔からでも借りて来たものでしょうか」
「その智慧は君から借用したんじゃ」
「エエ、私からですって」
「そうじゃ、あの手紙の文句に何んとあった、「[#「「」は底本では欠落]貴下が探偵をまきて見当違いの逮捕をなさしむる手腕に至りては」とある。これは君は犯罪的偉勲に対する讃辞であったんじゃ、フランボー君、あの先生は全く君の手を応用したんではなかったろうか、腹背両面に敵をうけながら、自分だけサッと体を開いて、前後の二人を衝突させ、そして殺合いをさせたんじゃなかったか。」[#「。」」は底本では「、」]折しもほの白い、暁空にも似た光が、夜空に流れて、草間がくれの月が次第に蒼白く輝き出た。二人は沈黙にふけりつつ流れを下った。「マー師父」と突然フランボーが呼びかけた。
「何んだかこうまるで夢のような気がしませんか」
だがブラウンは首をふるばかりで唖者《おし》のように黙っていた。夕闇を通して山櫨《さんざし》の匂いと果樹園の匂いとが二人の鼻に迫った。で天気が風ばんで来た事をわかった。次の瞬間、風が小舟をゆるがせ、帆をふくらませた。そして二人は蜿々たる流れの下の方へ、幸福なる土地、善良なる人の子の住む村々の方へと運んで行った。
底本:「世界探偵小説全集 第九卷 ブラウン奇譚」平凡社
1930(昭和5)年3月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「或→あ・ある・あるい 相不変→あいかわらず 貴方・貴女→あなた 如何→いか 何れ→いずれ 何時→いつ 所謂→いわゆる 於て→おいて 於ける→おける 凡そ→およそ 且つ→かつ 曽て→かつて 斯程→かほど 位→くらい 斯→こ 此所→ここ 此方→こっち 此→この 是れ・是→これ 然・然し→しかし 暫く→しばらく 直ぐ→すぐ 頗る→すこぶる 即ち→すなわち 折角→せっかく 是非→ぜひ 其処→そこ 其→そ 沢山→たくさん 唯→ただ 但し→ただし 為→ため 段々→だんだん 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと 附いて→ついて て居→てい・てお て呉→てく て見→てみ 何う→どう 兎角→とかく 何処→どこ 兎に角→とにかく 猶→なお 何故→なぜ 成程→なるほど 筈→はず 程→ほど 殆ど→ほとんど 亦・又→また 迄→まで 儘→まま 間もなく→まもなく 寧ろ→むしろ 若し→もし 若くは→もしくは 勿論→もちろん 尤も→もっとも 最早→もはや 矢っ張り→やっぱり 俺→わし 僅か→わずか」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※底本中、「ステーフィン」「スティーフン」「ステフィーン」、あるいは「シシリー」「シシリア」「シシリヤ」の混在はそのままにしました。
※語句の説明に使われた括弧内の文章は、割り注になっています。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(逆凪紫)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年6月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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