チン街のドーブレクの邸《やしき》だ、全速力だぞ!』
 彼の自動車の内部は事務室であり、書斎であり、また変装室であるように出来ていて、あらゆる参考図書は固《もと》より、ペン、インキ用箋の文房具、化粧箱、各種の衣服を始めとして、仮髪《かつら》、附鬘《つけかつら》の類から、種々《いろいろ》の装身具小道具まで巧みに隠してあった、彼は自動車の疾走中にいかなる千変万化の変装でも為し得るのであった。
 かくてドーブレクの邸に現れたのが、フロックコートに山高帽、金縁の鼻眼鏡に斑白の顎髯のある頑丈な中年輩の紳士であった。玄関へ出て来たビクトワールは、
『主人はただ今臥っておりますし時刻も夜分でございますから……』と云って何としても取り次ぎそうになかった。
『オイ、いい加減にしろよ。赤ン坊じゃあるまいし。解らんのか。急ぐんだよ!』
『アッ、あなた、あなたですかい!』
『いや、ルイ十六世[#「ルイ十六世」は底本では「イル十六世」]さ、アッハハ……だが乳母《ばあや》は俺が奴と面会している間に、大急ぎで荷物を纒めて、この邸を逃げ出すんだ……なんでもいいから俺の云う通りにしなさい。往来《とおり》に自動車が待たして
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