ルパンはしばし黙考してから声高に云った。『あなたは御存じないはずありませんね?』
『ええ存じておりますとも……』ルパンが尋ねるまでもなかった。メルジイ夫人は、黙しておられなくなったと見え、一人心の底に包んでいた悲しい長い物語をポツリポツリとしずかに語り始めた。
『二十年|前《ぜん》でございますが、当時私はクラリス・ダルセルと申しまして、両親と共にニイスに住んでおりましたが、その頃宅へ参ります三人の青年がございました。すなわちアレキシス・ドーブレクと、ビクトリアン・メルジイと、ルイ・プラスビイユと申上げれば此度《こんど》事件の裏面《りめん》はほぼ御解りでしょうと存じます。この三人はもとから竹馬の友で、学校も同じければ、軍隊も同じ連隊でした。その時、プラスビイユはニイスのオペラの女優を愛しておりましたが、メルジイとドーブレクとは私《わたくし》に思《おもい》をかけていました。その間に色々な経緯《いきさつ》がございますが、簡単に申上げましょう。事実だけお話し致せば十分でございます。最初から私はビクトリアン・メルジイを愛していましたので、すぐ、この事を打ち開ければ、間違いも起らずに済んだのでしょうが、真の恋は躊躇《ためら》い、怖れるかと申しまして、私《わたくし》も確とした意見も言わず、あやふやに過して参りました。不幸《ふしあわせ》な事には、私《わたくし》ども二人がこうした隠れた恋に酔いまして、時期を待っています間に、ドーブレクの思いをいよいよつのらせました、で、全く話が決った時の、ドーブレクの憤怒《いかり》と云うものは一通りではございませんでした。……』
 クラリス・メルジイはちょっと話を止めたが、怖ろしい想い出に身をふるわせつつ、
『今でも決して忘れは致しませんが、……三人が客間に落ち会いました時……そのドーブレクが恋の遺恨から吐き出しました悪口雑言《あくこうぞうごん》、あの凄い声は今だに私の耳に残っております。ビクトリアンも困ってしまいましたほど、あの時の様子の怖ろしさ、獣の様な……、ええ、怖ろしい野獣の様な表情を致しまして……歯を喰いしばり、足をふみならして申しました。その眼色《めいろ》……当時眼鏡はかけておりませんでしたが……ギロリと光る眼をきっと見据えまして、『この恨は晴らすぞ……きっと晴らしてやるぞ……貴様達に俺の力はわかるまいが……俺は待つ、十年でも、二十年でも……その時は落雷の様に荒らしてやる……ああ、貴様達は知るまいが……復讐……この恨を晴らすために……晴らすために……ああ愉快だ……俺は復讐のために生きるんだ……俺は貴様達に跪《ひざまづ》いて憐《あわれみ》を乞わしてやるんだ……地面《じべた》へ手をつかして……』と猛り狂うのを折よく入って来た父と下男との手を借りてメルジイが戸外へ突き出しました。それから六週間ばかりして私はビクトリアンと結婚致しました』
『それで、ドーブレクは? 何か妨害を加えませんでしたか?』
『いいえ。でも不思議なことには結婚式に列して下すったルイ・プラスビイユさんが宅へ帰られてみると、その、恋人の女優さんは……何者かに頸を絞められて、惨死していらしたのです……』
『エッ! 何んですって?』とルパン[#「ルパン」は底本では「ルバン」]は跳《おど》り上って驚いた。『ではドーブレクが……』
『ドーブレクがその女優を付け狙っていた事はわかっておりますが、何分証拠がない事には致し方がございません。ドーブレクが女優の処へ来たと云う証拠もなく、何《な》に一ツ手懸りを得ないので、どうも仕様がありませんでした』
『だがプラスビイユは……』
『プラスビイユさんも、私《わたくし》ども同様何も解りません。恐らくドーブレクが女を連れて、どこかへ逃げようと致しました処、女優さんが云う事を聞かず、激しく抵抗したので、かっとなって喉を掴んで殺してしまったのでしょう。しかしそれにしても証拠が一ツもないのでついそれなりになってしまいました』
『それからドーブレクはどうなりましたか?』
『それから数年の間は、何をしていたかちっとも消息《たより》を聞きませんでしたが、噂によりますと、何《な》んでも賭博ですっかり財産を無くしてしまい、内地にも居られなくなってアメリカに渡ったそうです。そんな訳ですから、私《わたくし》も、忘れるともなしにあの脅迫や憤怒のことを忘れてしまい、ドーブレクもう私の事を断念《あきら》めて、復讐の念を断った事と存じていました。その内に良人《おっと》が政界に出ましてからは、良人の出世とか、家庭の幸福とか、アントワンヌの健康なぞに心をとられていました』
『アントワンヌ?』
『ええ、実はジルベールの本名なのでございますが、さすがにあれも、身を恥じて本名を隠していたのでございましょう』
 ルパンはちょっと躊躇していたが、
『で、
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