水晶の栓
モウリス・ルブラン
新青年編輯局訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)暗《やみ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)最前|艇《ふね》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#始め二重括弧、1−2−54]
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[#8字下げ][#中見出し]※[#始め二重括弧、1−2−54]一※[#終わり二重括弧、1−2−55]夜襲[#中見出し終わり]

 名にし負うアンジアン湖畔の夜半。小さい桟橋に繋いだ二隻のボートが、静かな暗《やみ》にゆらりゆらりと揺れて、夕靄の立ち籠むる湖面の彼方、家々の窓にともる赤い灯影《ほかげ》、アンジアン娯楽場《カジノ》の不夜城はキラキラと美しく水《み》の面《も》に映っている。時はちょうど九月の末、雲間を洩るる星の瞬きが二ツ三ツ。肌寒い風は水面を静に渡ってゆく。
 アルセーヌ・ルパンはとある東亭《あずまや》の中で、煙草を燻《くゆ》らしていたが、やおら身を起すと桟橋の端近く水面を覗き込むようにして、
『オイ、グロニャール……ルバリュ……居《お》るか?』
 声に応じて両方の端艇《ボート》の中からヌッと現れた男、
『ヘエ、居りやす』
『用意をしろ。自動車の音がする。ジルベールとボーシュレーが帰って来たぞ』
 云い捨てて彼は庭園に戻り、新築中と見えてまだ足場のかかっておる家を一廻りして、サンチュール街に向いた門の扉《ドア》をそっと押せば、怪物の眼の様な前灯《ヘッドライト》がサッと流れて、巨大な自動車がピタリと止った。中から外套の襟を立て、帽子を真深に冠《かぶ》った二人の男が飛び出した。果してジルベールとボーシュレーとであった。ジルベールは二十一二の温和《おとなし》そうな容貌、見るからに華奢な、そして活気のある青年であったが、ボーシュレーの方は丈の短い、髪毛《かみげ》のちぢれた、蒼い顔に凄みのある男であった。
『オイ、どうした。代議士は?……』とルパンが尋ねた。
『ヘエ、見込通りに、七時四十分の汽車で巴里《パリー》へ出発《た》ったのを見届けました』とジルベールが答えた。
『じゃあ、思う存分仕事が出来るな』
『そうです。マリー・テレーズの別荘はこちとらの自由勝手でさあ』
 ルパン[#「ルパン」は底本では「ルパル」]は運転台に居《お》る運転手に向って、
『ここに居ちゃ拙《まず》い、正九時半にまたここへ来い、ドジさえふまにゃ荷物が積めるから…………』
『ドジだなんて縁起でもねえじゃありませんか?』とジルベールが不平だ。自動車はいずこともなく引返して行った。ルパンは二人を連れて湖水の方へ歩きながら、
『だってさ、今夜の仕事はおれの目論んだ事じゃあないからなあ。おれが自分で目論んだ事でなきゃ半分しか信用《あて》にしないんだ』
『冗談でしょう、首領《かしら》、わっしだって親方の御世話になってから三年になりますもの……ちったあ手心も解って来てますよ……』
『そりゃ、解っておるだろうさ。それだけになお心配なんだ……さあ乗り込んだ……ボーシュレーは、そっちへ乗れ……よし……出した……出来るだけ静粛《しずか》に漕ぐんだぞ』
 グロニャールとルバリュの二人はカジノの少し左手《ゆんで》に当る向う岸に向って一直線に漕ぎ出した。途中で一隻のボートに会った。しばらくするとルパンはジルベールの傍《そば》へ寄って低声で、
『オイ、ジルベール。此夜《こんや》の仕事を計画したなあお前《めえ》か、それともボーシュレーか?』
『誰って事はないんです……二月《ふたつき》ばかり前《めえ》から二人で相談してたんです』
『だがな。おれはあのボーシュレーて奴は信用出来ないんだ……あいつはどうも性質《たち》が悪い……腹黒な野郎だ……なぜおれは早くあいつを追い出してしまわなかったかと思っておるくらいなんだ。どうもあの野郎は気に入らねえ。危険人物だ。しかし確実にドーブレク代議士の出て行くのを見たんだな?』
『現在この眼で見たんでさあ』
『巴里《パリー》へ誰に会いに行ったか知ってるか?』
『芝居へ行ったんです』
『フム。だが召使どもが残っておるはずだが……』
『飯焚女《めしたきおんな》は帰ってしまいましたし、ドーブレク代議士が信用してるレオナールて男は、主人を迎えかたがた巴里《パリー》へ行きましたから、一時を過ぎなきゃ、大丈夫《でえじょうぶ》帰《けえ》って来ません』
『それで襲うたのは、あの公演に囲繞《かこ》まれておる別荘か?』
『そうです、マリーテレーズ別荘ってんです。それに庭続きの両側の別荘ですね。あれが五六日前から明いておるんですから、全くこちとらにはお誂向きでさあね』
『フム、余り簡単過ぎる仕事で、興味がないな』

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