らもその男を見た。それはグロニヤールとルバリユの両名、アンジアンの夜|端艇《ボート》を漕いだ両名、ジルベールとボーシュレーの同輩、すなわち彼ルパンの部下ではないか!
ようやくにしてシャートーブリヤン町の隠家《かくれが》に帰ったルパンは血にまみれた顔を洗って、失神した様に一時間も長椅子に横たわっていた。彼は始めて飼犬に手を咬まれた。始めてその部下から反抗《てむか》われたのだ。憤懣の気を休めようと機械的に傍《そば》にあった夕刊を取り上げて見ると、大文字《だいもんじ》の社会記事が目に付いた。
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マリテレーズ別荘事件
マリテレーズにおける下僕《しもべ》レオナール惨殺犯人としてさきに検挙されたる両名中ボーシュレーなるものの素性は最近に至ってようやく判明したるが彼は極悪無道《ごくあくぶどう》なる前科者にて、すでに偽名をもってこれまで二回殺人罪の下に無期懲役に処せられたる兇漢の由《よし》。なお共犯者ジルベールの本名等判明するも遠きにあらざるべく、検事においては一日も早く事件を起訴の手続に及び審理に処すべき方針なりと聞く、従来とかく遅鈍の評ありし当局も本事件においてはややその面目を保ち得たりと云うべし。
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他の新聞や書簡等の間から一通の手紙が出て来た。ルパンは一目この封書を見てハッと思った。それには「ボーモン(ミシェル)様」としてある。
『あッ! ジルベールからの手紙だ……』
中の書面は確かに十数字。
『首領《かしら》、助けて下さい! 恐ろしい……恐ろしい……』
その夜ルパンは悪夢に悩まされてマンジリともしなかった。そして物凄い、怖ろしい幻に襲われつつ彼は終夜悶えに悶えた。
[#8字下げ][#中見出し]※[#始め二重括弧、1−2−54]四※[#終わり二重括弧、1−2−55]敵の首領[#中見出し終わり]
あわれ、ルパン! 彼は現在の境地に捉わるることなく、他の一点を掴んで事件の展開を計らざるを得ざるに至った。しかしいかなる点に進むか――水晶の栓の追求を放棄しなければならないだろうか?
彼は去就に迷った。マリテレーズ別荘の殺人事件以来行方を晦《くらま》しているグロニアールとルバリユとの住んでいたアンジアンの別荘を想い出した。しかし、今彼等を問題としなくとも、ルパンはドーブレクに関係し、また関係せざるを得なかった。
「待て待て。感情のたかぶっている時には判断が間違って来る。だから黙って冷静に妄想を起さずに考えるんだ。事件の出発点を握らないで、いたずらに錯雑した事実ばかりに捉われているほど馬鹿々々しい事はない。そんな事をしているから迷宮から出られないんだ。だからまず、ルパン、お前の才能に聴け、お前の感得に依って猛進しろ。あらゆる論理的判断に俟《ま》つまでもなく、この怪事件は不可思議な栓を中心に渦を巻いているんだ。だから、そこへ勇敢に突っ込め、ドーブレクと問題の水晶とをたたきつぶせ!」
ルパンはこの決論を俟《ま》つまでもなく、早速実行に取りかかった。
彼はボードビルの劇場における事件の三日目に、古ぼけた外套を被って、頸巻《えりまき》に顔を埋め、ラマルチン広場からやや遠く離れたビクトル・ユーゴー街の共同椅子に腰を下ろしていた。自分の手許《てもと》へ来た報告によれば、ビクトワールは毎朝、この共同椅子の前を通るはずであった。
やがて買物篭を腕に抱えて、ビクトワールが遣って来た。見ると非常に昂奮して真蒼《まっさお》な顔をしている。
『さあ、これですよ、あなたの探しているのは……』彼女は前後を見廻しながら、篭の中から小さな品物を取り出して彼の手に渡した。ルパンは茫然とした。手には水晶の栓を握っている。
『ほんとかい? ほんとかいこれは?』
と呟いた。余り無造作に手に這入《はい》ったので、むしろ一種の失望をさえ感じていた。
しかし、現実の事実である。目に見る事も出来れば、手に触《ふ》るる事も出来るのだ。その形、その大いさ細かい金線の飾り、まぎれもなく彼がかつて手にしたことのある水晶の栓に相違ない。目につかぬほどの微細な傷がその栓の頸の処にあるものと見覚《みおぼえ》がある。品物に間違いはないが、うち見たところ、何等変った点もなく、ただ一個の水晶の栓に過ぎない。他の栓と区別すべき何の特徴もなければ、何の記号も印もない。一個の印を刻んだに過ぎないもので、別に不思議な点も見当らない。
『何だいこれは?』
ルパンはふと疑惑に捉われて云った。この水晶の栓に附随する価値を知らないで持っていた[#「持っていた」は底本では「持つたゐた」]処が何の役に立とう。ただ硝子の一片に過ぎないんだ。これを手に入れる前に、まずその価値を知らなければならない、ドーブレクからこれを奪い取って見たものの、それが馬鹿げたこと
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