力限り向う岸へ漕いで行ったと報告した。
署長はジルベールの顔をジッと見詰めていたが、ハッと思うと始めて一杯喰わされた事を悟った。
『チェッ、失敗《しま》ったッ。きゃつらを捕《とら》えろ! 同、同類だッ。撃放《うちはな》しても構わんッ、早く!』
と叫ぶと同時に二名の部下を連れて真先に飛び出した。水辺まで駈け付けてみると百|米《メートル》ばかり漕ぎ去ったかの男は、四辺《あたり》を包む夕暗《ゆうやみ》の中で、帽子を振っておる。
口惜《くや》しまぎれに警官の一人が二三発発砲した。
水面を渡る微風のまにまに、不敵な曲者《くせもの》が悠々として漕ぎ去りつつ唄う船唄が流れて来る。
流れ浮き草……風吹くままに……
人も無げなるこの振舞いに地団駄踏んだ警官連、ふと見ると隣りの庭に一艘の舟が繋がれてあった。天の与えとばかり垣根を飛び越えた署長以下二人の警官は舟へ躍り込むや否や纜《とも》切る間も遅しと湖中に漕ぎ出した。
折から雲間を洩れた月光を湖面一杯に浴びて二艘の端艇《ボート》は矢の様に水上を辷《すべ》る。警官隊の舟は軽快な上に漕手《こぎて》は二人である。速力の速さは比較にならぬと見て取った署長が満身の力を振《ふる》って漕げば、不思議にも、両艇の距離は意外の早さをもって接近して来た。巡査はますます努力を加えた。小舟は矢よりも早く突進する。今は数秒後に敵に達するばかりだ。
『止れッ』と署長が叫んだ。暗《やみ》にすかしてかすかに見ゆる敵の姿は、身を屈《かが》めて動かない。
『御用だッ!』と署長が叫ぶ。
月は再び雲に隠れて四辺《あたり》は暗い。賊は早くも身構えた様子に、三人の警官はピタリと船底に身を伏せた。舟は惰性で真直ぐに突進した。しかし敵は依然として微動だにしない。
『神妙にしろッ……武器を棄てろッ、云う事を聞かないと容赦はないぞッ、宜《よ》しか、そら一ツ……二ツ……』
三ツの声も聞かぬ内に警官は一斉に撃放《うちはな》すや否や、オールに獅噛《しが》み付いて、敵艇を突くまでに力漕した。
敵は依然として泰然自若、舟はジリジリと肉薄した。二名の警官は艫《ろ》をかなぐり捨ててまさに敵艇に突撃せんとした刹那、『アッ』と云う驚きの声が三人の口を突いて出た。艇《ふね》の中は藻抜けの殻だ――今まで敵だと思った人影は盗み出した品物を積み上げて、それに上衣《うわぎ》を着せ帽子を被《かぶ》せた案山子《かかし》であった。
彼等は燐寸《まっち》をすって賊の残した衣類を調べた。そこには書類も紙入《かみいれ》もなく、ただ一ツ一枚の名刺があった。そこには怪賊アルセーヌ・[#「・」は底本では「。」]ルパンの名が記されてあった。
これとほとんど同時刻に、アルセーヌ・ルパンは最初に出発した岸へ泳ぎついて、悠々と上陸した。そこには部下のグロニャールとルバリュが待っていたが、彼は慌しく二言三言云い棄てて、ドーブレク代議士の家から盗み出した品物を積み込んである自動車に飛び乗り、毛布《けっと》をスッポリ頭から被り、そのまま人影杜絶えた夜の道をヒタ走りに走らせ、ニコーリー町の秘密倉庫で自動車を降りた。
マチニョン町にはジルベール以外一味の部下の何人《なんぴと》も知らない瀟洒たる隠家《かくれが》がある。ホッと息を吐《つ》いた彼れは直ちに衣服《きもの》を脱ごうとして例の通り、寝床へ入る前に懐中しておるものを一々取り出して傍《そば》の暖炉《ストーブ》の上に置いた。紙入《かみいれ》を出し鍵を出すと次にジルベールが捕縛される最後の瞬間にソッと自分の手に渡した品物のあったのに気が付いた。彼はそれを出してみて吃驚《びっくり》した。硝子《がらす》の水入れに付いてる様な水晶の栓で、打ち見たところ栓と云うより外《ほか》に何の変哲もない代物だ。強《しい》て特徴と云えば栓の頭が多面体《ためんてい》に刻まれて、中ほどくらいまで金色《こんじき》に色を付けてあるくらいのもので、いくら見ても珍重するほどのものとは思われなかった。
『ボーシュレーとジルベールとがあれほどまで執念深く目を付けたのがこんな硝子の栓なのか? この栓一箇のために書記を殺した、これのために二人して争奪をした。これのために時機を失った。これのために牢獄の危険を冒し……裁判も忘れ……断頭台も恐れなかったのか……可怪《おか》しい、どうも不思議だ……』
不思議の謎を解きたいのは山々だが余りに疲労してこれ以上考えるに堪《た》えないので彼は問題の栓を暖炉《ストーブ》の上に置いて、そのまま寝床へ入った。
彼は苦しい悪夢に魘《うな》された。いかに藻掻いても、目に見えぬ糸で縛り上げられたごとく、一寸も動く事が出来ず、目の前には恐ろしい幻影、黒布《こくふ》に覆われた物凄い棺桶、湯棺に代る最後の化粧、悲惨な断頭台の断末魔の光景がそれからそれと展開
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