様だ……がしかしそこには誰も居ないはずだ。書記の血に染《にじ》んだ死骸より外《ほか》には何人《なんぴと》も居ようはずが無い。
 怪しの声は再び聞えて来た。ある時は鋭く、ある時は息の詰る様に、唸る様に、吠える様に、悲しげに、恐ろしげに、意味も解らぬ片言がどこからともなく聞えて来る。
 さすが豪胆のルパンも全身冷水を浴びた様に慄《ぞっ》とした。この物凄い、無気味な墓場の底から出て来る悲鳴は、果して何んだろうか?
 彼は書記の死骸を覗き込んだ。声はハタと杜絶《とだ》えたがまた聞えて来る。
『もっと灯火《あかり》をこちへ』とジルベールに云った。
 彼は云いしれぬ悪寒がする様なのを止《と》める事が出来なかった。が怪しい声は確かにここから出て来ると思った。ジルベールが点けた灯火《あかり》でよく見ると、声は確かに死骸から出るのだが、その死骸は氷の様に冷たく、硬直して、血に染った唇は微動だにしていない。
『首《か》、首領《かしら》、どうしたんでしょう』とジルベールは歯の根も合わず慄《ふる》えておる。
 ルパンは突然プッと噴飯《ふきだ》した。そして死骸を攫《つか》んでグイと傍《そば》へ押し転がした。
『そうだ!』と云って何やら光った黒いものを引っぱった。『……さうだ!やっと解った……ハハハハこれだこれだ。すぐに気が付きそうなものだったが、馬鹿におどろかされたもんだて』
 見れば死骸の下に電話の受話器がある。そしてその紐《コード》は壁に取付けられて電話機につながっていた。ルパンは受話器を耳に押し当てた。とまもなく声が聞こえて来た。人々の呼んだり叫んだりする声――大勢の人々があわてふためいて一時《いちじ》に色々な事をがやがや怒鳴っているのであった。
『……オイ、そこに居《お》るか?……返事がないぞ……こりゃ大変だ……殺《や》られたかもしれんぞ……オイそこに居るか?……どうしたどうした?……オイ確乎《しっかり》せい……警察からも出かけたぞ……警官も……憲兵も出かけたぞ……』
『エイ、勝手にしろ』とルパンは受話器を投《ほう》り出した。
 初めルパン等が懸命に品物の運搬をしておる間に、レオナールは余り堅く縛してなかったのを幸い、その縄を解いて電話機の傍《そば》まで転がって行って、受話器を口に啣《くわ》えて床の上に下ろし、それからアンジアンの電話局へ救助を叫んだのだ。
 ルパンが最前|艇《ふね》の出るのを見送って内へ入る時驚かされた叫声《さけびごえ》『助けてくれ……助けてくれ……殺されそうだ……』と云ったのは書記が必死になって交換局へ救いを叫んだ時だったのだ。今がやがや言っておるのは交換局からの返事だ。警官隊は時を移さず駈け付けて来た。ルパンは四五分とも経たぬ今の先、庭園の方に当って聞こえた人声を思い出した。
『警官だ……さあ出来るだけ逃れるんだ』と云って食堂を駈け出そうとする。
 しかしこの時正気付いたボーシュレーは苦しい声を絞って、
『首領《かしら》。見捨てて行くんですかい、こんなになっておる私《わっし》を……』
 身に迫る危険を捨ててルパンは立ち止った。そしてジルベールに手伝わしつつ負傷者を抱き上げた時、すでに戸外に人の迫った気配。
『失敗《しま》った!』と叫んだ。
 この時家の裏手の入口の戸を割れよとばかりに乱打する。彼等は廊下の戸口へ走った。と見る警官隊は早くも家を包囲して無二無三に突き入ろうとしている。彼はこの隙にジルベールを伴《つ》れて湖水の岸まで逃げようかと思った。しかし逃げたとしても背面《うしろ》からあびせられる敵の砲火にどうして湖水を渡れよう?とそう思うと、彼はつと戸を閉じて閂《かんぬき》を下した。
『もう手が廻ったッ……やられたッ……』とジルベールは狼狽《あわ》てた。
『黙れッ!』とルパンが云った。
 その時、ルパンは石像の様に突立っていた。その顔色は、悠然として全く平静に、その態度は泰然としてあらゆる事象の裡《うち》に形勢の機微を洞察せんとするもののごとく熟慮していた。これぞ彼のいわゆる「無念無想の妙諦」に入《い》る時であって、彼の真骨頭《しんこっとう》を発揮する瞬間であるのだ。身に迫る危険、擾乱《じょうらん》の渦《うずまき》の中に投ぜられた時、彼は静かに『一[#「『一」は底本では「一」]……二……三……四……五……六……』と数を読み初める。かくする事一二分、心臓の鼓動は鎮まって、無念無想の妙境に達する。この瞬間、彼が魔のごとき洞察力、彼が満身の勢力、彼が徹底せる熟慮と深瀾《しんらん》のごとき遠謀とが渾然として湧出して来る。しかしてその澄み切った心鏡に映るあらゆる形勢と現状とに対して、彼は論理的に考察し、確実に予見する事が出来るのであった。
 三四十秒後悠然と落ち着き払った彼は、二人の部下を伴うて、向いの庭に面した窓の框《かまち》を
前へ 次へ
全35ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ルブラン モーリス の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング