二十二年を經て初めて湧くおもひである。
『この人が?……この人が?……』と思つて、つくづく親しくその顏を眺められた朝から、思ひもかけぬ感情のはたらきが民子の心を支配した。これがわが言ふことであらうかと思はれるやうなうるほひのある言葉も、體の曲線のうねりも、少女の持つ寶として、それは戀の鍵に依つて開かれたのである。
『ぢやあね、九月を待つてるよ。ね、九月になつたらきつと出て來なけりやいけないよ。何もかも民さんの決心一つなんだから……』
民子は默つて合點をした。包むやうな男の胸の匂が、ふと記憶を掠めて消えた。
『もう歸らう! だんだん暗くなつて來た!』
その聲に、慴えたやうに民子は立ち上つた。
『あら! あの船はまだぢつとしてますよ!』
思ひもかけなかつたやうな驚異の言葉は、ふと出てその半を潮風に掠はれて行つた。
船の影は黒くなつて死んだやうに靜止してゐる。浪といふ浪はすつかりそれ自身のうちに薄い暗を吸ひ取つてゐた。
簾戸を漏れる燈の影が、凉しく縁側を越えて庇の屋棍瓦にその末を投げてゐる。紙を走るペンの音が、そのあかるい灯の中から聞えた。民子の姉に齎す手紙が、男によつて一心に書
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