黒みを加へつつあつた。斷崖の先に打ち込まれた幾本かの杭に引いた針金のゆるみが、搖ぐほどに時たま風は強く吹きあげる。
『あの船は歸るんでせうか、行くんでせうか?』
 民子はしづかにその杭の一つにつかまりながら言つた。
 遙の沖に一つ小鳥のとまつたやうにぢつとしてゐる船は、少しづつ動くやうでもあれば、また動かぬもののやうにも見えた。
『さあ。』
 しばらくして男は言つた。
『今時分出て行く船もあるまいから、その邊で漁でもしてるのだらう。ごらん、ぢつとしてるぢやないか。』
 はらはらと鬢の毛が頬を撫でる。
 空と海との境は紛るゝほどになつた。たゞ下にはちらちら閃くものが走り、上には雲らしいものがかすかに薄く漂ふのである。
『まだ動きませんね、あの船は。』
『…………』
 民子はふとその顏を仰ぎ見た。
 かなしみを含んだ男性の沈默、その目は暮れて行く浪の面に動かず注がれて沈んだ。民子の胸には、言ひやうのない感激がかなしさを誘つて流れた。
『民さん。』
『え?』
『明日歸るつもりなんだらう?』
『…………』
『ね?』
『えゝ。』
 この時矢のやうに走つたいとしさが民子の胸を震はした。それは生れて
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