黒みを加へつつあつた。斷崖の先に打ち込まれた幾本かの杭に引いた針金のゆるみが、搖ぐほどに時たま風は強く吹きあげる。
『あの船は歸るんでせうか、行くんでせうか?』
 民子はしづかにその杭の一つにつかまりながら言つた。
 遙の沖に一つ小鳥のとまつたやうにぢつとしてゐる船は、少しづつ動くやうでもあれば、また動かぬもののやうにも見えた。
『さあ。』
 しばらくして男は言つた。
『今時分出て行く船もあるまいから、その邊で漁でもしてるのだらう。ごらん、ぢつとしてるぢやないか。』
 はらはらと鬢の毛が頬を撫でる。
 空と海との境は紛るゝほどになつた。たゞ下にはちらちら閃くものが走り、上には雲らしいものがかすかに薄く漂ふのである。
『まだ動きませんね、あの船は。』
『…………』
 民子はふとその顏を仰ぎ見た。
 かなしみを含んだ男性の沈默、その目は暮れて行く浪の面に動かず注がれて沈んだ。民子の胸には、言ひやうのない感激がかなしさを誘つて流れた。
『民さん。』
『え?』
『明日歸るつもりなんだらう?』
『…………』
『ね?』
『えゝ。』
 この時矢のやうに走つたいとしさが民子の胸を震はした。それは生れて二十二年を經て初めて湧くおもひである。
『この人が?……この人が?……』と思つて、つくづく親しくその顏を眺められた朝から、思ひもかけぬ感情のはたらきが民子の心を支配した。これがわが言ふことであらうかと思はれるやうなうるほひのある言葉も、體の曲線のうねりも、少女の持つ寶として、それは戀の鍵に依つて開かれたのである。
『ぢやあね、九月を待つてるよ。ね、九月になつたらきつと出て來なけりやいけないよ。何もかも民さんの決心一つなんだから……』
 民子は默つて合點をした。包むやうな男の胸の匂が、ふと記憶を掠めて消えた。
『もう歸らう! だんだん暗くなつて來た!』
 その聲に、慴えたやうに民子は立ち上つた。
『あら! あの船はまだぢつとしてますよ!』
 思ひもかけなかつたやうな驚異の言葉は、ふと出てその半を潮風に掠はれて行つた。
 船の影は黒くなつて死んだやうに靜止してゐる。浪といふ浪はすつかりそれ自身のうちに薄い暗を吸ひ取つてゐた。

 簾戸を漏れる燈の影が、凉しく縁側を越えて庇の屋棍瓦にその末を投げてゐる。紙を走るペンの音が、そのあかるい灯の中から聞えた。民子の姉に齎す手紙が、男によつて一心に書
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