探い決心を持つて歸國するには、助言のために姉の感情も考へなければならなかつた。しかしそれはあまりに殘をしい悲しいわかれであるために、民子は歸るといふことに就てはまだ一言もいひ出さなかつた。
あらゆるものを彈いてたゞ二人が二人の息をしてゐた日は、僅ではあるが尊いものであつた。一またゝきにも、その唇の微なふるへにも、二人にのみ動く神經が、どうして一つの胸にばかり思の宿るのを見逃して置かう。民子の考は男の思であつた。
たとへ二人は間もなく二人の生活をはじめるのであるにしても、それはまたある時のことであつて、現在の滿足を失ふかなしみには、漸く見出すほどの慰藉に過ぎないのである。四つづつついた砂の足跡も、明日からは寂しく二つづつ殘るであらう。浪に、砂に、それとない告別の目が民子の顏色を沈ませた。その顏色がまた男の顏色であつた。
自分の心を悟つてゐる男の心をまた悟つて、その沈默を破るのを恐れるやうに、民子はやはりいつまでも默つてついて行つた[#「行つた」は底本では「行つだ」]。潮風は一足毎に岬の鼻に近づくに從つてしめりを加へて來た。耳になれた浪の音は、次第次第にその度を高くして行く。ふと民子は立ち止つた。それは導くあゆみがぴたりとそこに止つたからであつた。見ると、白絣の袂の下に跼んで、一人の媼が何やら摘み取つては籠の中に入れてゐる。
二人がそこに立ち止つたので、媼は體を崖の方に寄せて、背をそばめて道を開けようとした。けれども二人はしばらくそこに立つて、ぽきぽきと音をたてゝ摘まれる草の手元を見入つた。
『おばあさん、なんだいその草は?』と、初めて男によつて口が開かれた。
『これかね、これあ濱菊つてまさあ。』
『なんするんだらう?』
それはひとりごとともつかず言ひ出された言葉であつた。
『土用の牛の日にね、これを摘んでて、風呂に入ると、リウマチなんぞにそりやあよくきくんでさ。ここらの奴どもあ、誰もこんな有り難いことを知りあがねえんさ、ほんに勿體ねえ、こんなにどつさりあるものをさ。』
媼はぶつぶつ呟くやうに言ひながら、貪るやうにぽきぽきとその有り難い藥草を折り溜めた。投げ入れられる草は、籠の中に氣のせいほどのしほれを見せて積み込まれた。
二人はやがてまた默つて歩き出した。岬の頂には、待ち構へたやうな潮風が、はらはらと浴衣の袂を弄んだ。南上總の海は、靜さのうちに徐々として
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