とき母は奸婦らしい茶色の雌鷄を眺めながら呟いてゐた。
 雌鷄がキメて(臍を曲げる意味)玉子を生まなくなると、盥を被せて置くといゝといふ話がある。在方の百姓家などではよくやるのださうだ。で、母は試に一日茶色の鷄に盥を被せて、その上に石を載せて置いた。夕方ほかの鷄が鳥屋に入る頃、石を取りのけて盥を起して見ると、仕方なささうに地べたに坐つてゐた茶色の雌鷄は、けろりとした顏をして起き上つて、首をさしのべさしのべ、雄鷄の聲のする方へと歩いて行つた。
 二三日經つたけれど、やつぱり彼女は卵を生まなかつた。そしてたうとう最後まで一つも生まないでしまつた。
 ある日、家内に何か忙しい事があつて、夕方になつても彼等を小屋に入れないでゐると、「こゝこゝ」と、妻たちを呼びながら、さつさと庭に入つて來た雄鷄は、いきなりばさばさと強い羽音をたてゝ、煤けた臺所の梁の上に飛び上つた。そしてまた「こゝこゝ」と上の方から呼ぶと、續いて茶色のもまた飛び上つて行つた。
『あらあら、鷄があんなとこさ上つた……』と、私が叫ぶと、
『在の百姓家では、よくあんなとこさ上げて置くから、それを覺えてゝ、はあ夕方になつたから上つて寢るつもりなんだ。』と、母が説明してくれた。
 私は奇異な思をしながらなほよく上を眺めてゐると、雄鷄と茶色の雌鷄とは、煤だらけの梁の上にぴつたりと寄り添つて、胸元をふくらませながらもう寢仕度にかゝつてゐた。それまで下の方にぴよぴよ言つてゐた白い雌鷄は、是もやつとの事で高い梁の上に飛びつくと、茶色のが意地惡さうにひよいと首をつき出すのも待たず[#「待たず」は底本では「待たす」]、遙に雄鷄から離れたところに寂しく脚を折つて胸をつき出した。それを見ると、私はまた急に憎らしくなつて、高い窓を閉めるために入れてあつた竿を持ち出して、茶色の雌鷄を下からこつこつとつゝいてやつた。

        三

 ある日の事であつた。井戸の側の濕つた地に轉がつてゐた石を掘り返すと、大きな蚯蚓が出て來たので、私は鷄共をそこに呼び集めながら、棒片を持つて猶もやたらにそこらを掘り返した。「こゝこ、こゝこ」といふ嬉しさうな聲が、暫く私の足許に續いてゐた。その時、何の前提もなく、いきなり白い大きなものが、非常に急速な勢で轉がつて來たと思つた刹那、「けつけえつ!」といふ裂かれるやうな叫聲に、私はひつくり返るばかりに驚いて飛びのいた。そしてその白いものが、大きな斑猫だと分つた時に、私は初めて、
『あつ! 大變だ大變だ!』と叫んだのであつた。
 脅された鷄の聲の烈しさに驚いて驅け出して來た母は、
『あつ、こん畜生!』と言ひながら、引きずるやうに鷄を喞へて行く猫を追ひかけたけれど、猫はすばやく隣の塀の下を潜つて、どこかに見えなくなつてしまつた。
 私はただあつけに取られて、何が何だか分らないでゐたが、ふと見ると、白い雌鷄が不安さうに胸に波打たせてゐるので、まあよかつたといふやうな氣がした。猫に捕られたのは、あの意地のわるい茶色の雌鷄だつたのである。
 しばらくしてから私は母として隣の家の庭まで搜しにいつて見たけれど、勿論そこらにぐずぐずしてゐるわけはなし、またどこの猫かも分らなかつたので、私の家ではそのまゝ泣寢入になつてしまつた。
 この思ひがけぬ出來事のために、彼等はまた一夫一婦の平和な生活に還る事が出來た。そして永久に平和であるべき筈であつた。けれども、美人は薄命であると、私はこの白い美しい雌鷄についても言ひたい……
 鋭い猫の牙に咽喉笛を切られた茶色の雌鷄の記臆は、もう次の日から彼等の間に影も見えなかつた。家の者達が注意して裏庭には出さないやうにしたので、一日内庭の固い土の上を仲好くあさつて歩き、時々勝手の上り框に載つて餌をくれと人にせがむやうな顏付をしてゐた。ある時はまた表の軒下に置いた荷車の下で、土を浴びながら羽蟲の取りこなどをしてゐた。
 かうした日の連續なるある日、門口で友達と別れた私が、カバンの中の筆入をがらがらさせながら家の中にはひつて行くと、ふと後にひそやかな足音と「とううとうう」といふ聲がするので振り返つてみると、例の白い雌鷄が一人で寂しさうに私の後について來るのであつた。なんだかその姿がいつもに似ず寂しく思へたけれど、別に氣にもしないで、
『唯今。』と、大きくどなりながら上つて行つた。
 家の中には誰もゐなかつた。私は例ものところにカバンを掛けて、またすぐに裏に出てみると、母と、それからいつも畑仕事に來る日雇人とが、二人とも手に棒片をもつて、
『ほんとに仕樣のない猫だ、この間で味しめたもんだから……』
『今度また來たらぶち殺してくれつから……したがまあ惜しいことをしやしたなあ、もう一足早いとよかつたんだが……』などゝ言ひ合つてゐるのだつた。
 私はどきりとして、
『ど
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