てゝゐる母を思ひながら默つて着物の袖に手を通した。
私が下駄の音をたてゝ鳥屋の前に近づいて行くと、庭の戸がまだ閉つてゐるために薄暗い小屋の中から[#「小屋の中から」は底本では「小屋の から」]、もう疾うに目覺めてゐるといはぬばかりに、「こゝこゝ」と促すやうに呼んでゐた。雛を少し[#「少し」は底本では「少 」]大人にしたやうな「ぴいよぴいよ」といふ優しい雌鷄の聲も遠慮深さうに交つてゐた[#「交つてゐた」は底本では「交つゐた」]。
私がその小さな小屋の戸をはづしてやると、勇んだ足取で出て來た雄鷄は、背伸でもするやうに 羽搏して[#「するやうに 羽搏して」はママ]、突然力を入れて閧を作り、それから「こゝこゝ」と妻を呼びたてる。私の足が小屋の前に立つてるために、出るのを躊躇してゐた雌鷄は、その聲を聞くと、まつ白くするりと脱け出して、怪訝さうに首をのばしながら見なれぬ庭の中を覗き廻してゐた。
やがて煙のやうに湯氣の騰る暖い朝餉の膳に私達は向つた。すると母が思ひ出したやうに、
『曉方、どこかの一番鷄が一聲啼くと、すぐに家の鶏が閧を作つたつけ。』と言つた。
『さうだ。』と、無口な姉も口を添へる。
父は默つてゐたけれど、無論それを知つてるだらうと私は思つたので、自分一人が、この私の家に於ける最初の鶏の啼聲を聞き洩したことを、どんなに殘念に思つたか知れなかつた。
二
私は學校から歸ると、必ず自分のおやつを貰ふことゝ、それを喰べながら鶏を眺めることゝを忘れなかつた。おさつの臍の方などを投げてやると、雄鷄は「こゝこ、こゝこ」とつゝき廻しながら雌鷄に譲つてやるのだつた。けれども時々雄鷄が翼をひろげて雌鷄の方に寄つて行くのを見ると、雌鷄が一寸逃げるやうにするので、はじめのうちはよく雄鷄を袂で追ひ拂つたものだつた。雌鷄がいぢめられるのだと思つたものだから。
ある日のこと、雌鷄はひとりで内庭の方に入つて來て、頻に何かを搜してゐる模樣だつた。
『玉子を生《な》すのかも知れないから、小屋の戸を開けてやつて見ろ。』と、母が言つた。
それを聞くと、私は何か信じられないものを信ずるやうな期待でいつぱいになつた。言はれるとほりに小屋の戸を開けてやると、彼女はやがて用心しいしいその中に入つて行つた。
私は幾度か小屋を覗きに行つた。その度に彼女は不安さうに首をのべて、私がどうかしやしないかと窺ふやうに顏を眺めるのだつた。幾ら待つても彼女は巣から出て來ないので、私はやゝ飽いてしまつた。そして折から誘ひに來た友と一所に表に出ていつてしまつた。
暫くして、何も彼も忘れて表から家の中に飛び込んで來ると、庭の入口に立つてゐた母が、
『ほれ、こんなにめんげのを生《な》した……』と、手の平に粉を吹くばかりに綺麗な、恰好のよい玉子を載せてゐた。
『ほんと? え? これほんとに家の鷄が生《な》したの?』
私は奇蹟でも見るやうに、母の手から玉子を奪つて、握つて見たり、頬にあてゝ見たりして騒ぎ廻つた。その玉子は家内中の手から手へ渡り、それから私の友達が遊びに來さへすると、必ず出して見せられたのであつた。
それからといふもの、彼女は大抵一日おきに産卵した。
『おゝ、いゝ鷄がゐやすなあ、どうです卵を生《な》しやすか? これはもう一羽雌鷄を置くといゝんですがなあ、さうしつと大抵卵をかはりばんこに生しやすからなあ。そのうち一つ在の方さ行つた時に、恰好なのを見つけて來てあげやせう。』と、あるとき紙屑を買ひに來た棒手振が、暫く鶏を眺めてゐたあとで言つた。
その人の手から買はれたものであるかどうかははつきり分らないけれど、とにかくもう一羽の雌鷄が、間もなく一所に遊んでゐるやうになつた。
それは全身茶褐色の雌鷄で、白い雌鷄に比してどこやら形が武骨であつた。飽く迄も白い雌鷄贔負の私には、その茶色の鷄の眼付が、何となく意地惡さうに見えてならなかつた。また實際彼女は意地惡であつた。ぱらぱらと小麥を撒いてやると、一口二口ついばむと思ふ間に、いきなり白い雌鷄をつゝいて、餌の傍に寄せつけないやうにするのであつた。氣の弱い白い雌鷄は、それに手向はうともしないで、一人で悲しさうに遠のいてゐるので、私はわざといつぱいそこらに餌を撒いてやる。すると茶色のは、自分の方を一粒殘さず拾ひ上げもしないうちに、又やつて來て白い雌鷄をつつく。それを憎らしがつて私はよく茶色の籠をかぶせてやつたものだつた。
この茶色の雌鷄は一つも卵を生まなかつた。それでゐて燒餠やきで、雄鷄が白い雌鷄を呼ぶやうなけはひがすると、つゝうつと走つて行つて、白い雌鷄をつゝいていぢめた。それにも拘らず白い方はやはり今までどほり卵を生んでゐた。そしてつゝましく群を離れて遊んでゐる事が多かつた。
『この鷄は石鷄だ。』と、ある
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