白い雌鷄の行方
水野仙子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お店《たな》

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(例)金網の[#「金網の」は底本では「金綱の」]用意などは
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        一

 年老いた父と母と小娘二人との寂しいくらし――それは私が十二の頃の思出に先づ浮んで來る家庭の姿であつた。總領の兄は笈を負うて都に出てゐるし、やむなく上の姉に迎へた養子は、まだ主人からの暇が出ないで、姉と共に隣町のお店《たな》に勤めてゐた。町でも繁華な場所に家屋敷はあつたけれど、軒並に賑つてゐる呉服屋や小間物店の間にあつて、私の家ばかりは廣い間口に寂しく蔀が下されてあつた。
 年に一度、少しばかりの米俵を積んだ荷馬車がどこからか來て庭先にとまる。そして馬子がそれを一俵づつ背中に負うて、内庭を通つて倉に運んで行く。私はもの珍しくその後について行つてみると、母は上つぱりを着て手拭を冠つて、もう一人の男と馬子とが擔ぎあげる天秤棒を通した秤の目を取つてゐる。母のうわつぱりの横の方が、糠か何かで白くなつてゐる。時々俵をこぢあけて、一つまみ米をつまみ上げて手の平で吟味する――さうした大人のしぐさを感心して見てゐる私の足許に、ふと「こゝこゝこ、こゝこゝ。」といふ元氣のいゝ鷄の聲がする。奴さん達もう落米を見付けてそれをひろひにやつて來たのだ。
 あゝ、今でもその薄暗い倉の中に動いてゐる母の手拭を冠つた姿と、あのまつ白な雌鷄のちよつぴり傾いた鷄冠とが見えるやうな氣がする。そしてその二つのものが、何といふ女性らしい――否、いふ事が出來れば母性らしさを、共通に私の記臆にとゞめてゐる事であらう。
 私の家で鷄を飼つてゐたのは、後にも先にもその頃が初めてゞあつた。何でもそれは、總ての生物が好きだつた私が、犬を飼つてくれ犬を飼つてくれとせがんだのがはじまりだつたと思ふ。父が實利的な頭から割り出して、犬は大飼を喰ふばかりで何の役にも立たない、猫はそれでも鼠を捕るといふ仕事があるが、犬ばかりは人間に直接な役目をしないといふのがその持論なのであつた。ところで、猫は私達姉妹が大好きなのだけれど、幾ら飼つてもどうしても私の家には育たないのであつた。病氣になつて死ぬか、でなければ車に轢かれる、或はゐなくなつてしまふといふ風に、どうしても大きくならないうちにみんなどうかなつてしまふのであつた。寅年生の者がゐる家には猫が育たないといふ話があるけれど、姉はちようどその寅年生なのであつた。で、猫も駄目なので、犬のかはりに鷄が飼はれたわけであつた。鷄なら玉子を生むからといふのである。
 かうして飼はれるやうになつた鷄が、どこからどうして手に入つたのかなぞは、全然私の記臆にない。私はたゞ珍しくつて嬉しくつて、そして何故ともなく、かすかに得意だつた氣持を覺えてゐる。最初の日は、どこかに行つてしまふのを恐れて、裏庭に出して背負籠をかぶせて置いた。(勿論金網の[#「金網の」は底本では「金綱の」]用意などはなかつたし、作らうともしなかつた。)そしてその前に屈んで、私は飽かず彼等に眺め入つた。
 純粹の矮鷄《ちやぼ》にしては少し形の大きい雄鷄は、玉蟲色に光の陰翳する羽根や、黄金のやうに輝く毛をもつて全身を蔽はれ、形よく盛れ上つた尾は長く地を曳くばかりであつた。そしていかにも若い者のやうな元氣で地を掻きながら、首をかしげて雌鷄に合圖をし、又は絶えず周圍の物音に氣を配つて、きつと重い鷄冠を振りたてた。彼は如何にも男性らしく立派であつた。その立派さに對して雌鷄の無彩色なのは、一寸見ると見劣がするやうであつたけれど、雄鷄から暫く目を轉じて彼女を見てゐるうちに、私はたまらなくその雌鷄が好きになつてしまつた。全身が眞白で、綺麗で、ぷくりと脹れてゐる胸のあたりの美しい線が、何ともいへず華奢であつた。小さな丸い首の上に赤い鷄冠がちよんびりついてゐて、それが左の方が少し曲つてゐるのが、前髪に赤いきれをかけた娘のやうに、いかにも女らしかつた。時々小さな潤んだ目を上げて、籠の前に跼んでゐる私を窺ふやうに首をさしのべた。私は無暗と籠の目から菜の葉を差し込んだり、そつと臺所から磨いだお米を握つて來たて、上からぱらぱら振りかけたりした。鑵詰の空鑵に入れて置いた水を、狭い籠の中で雄鷄が足掻く拍子に引つくり返してしまふのを、幾度か充してやつた。
 少年時代の幸福な眠を、私はその夜も母の懷の傍で眠つた。そして一夜の夢の旅から、私のおぼろな意識がだんだん朝の領分に歸りかけた時分に、今迄聞いた事もない、つい近くで、冴々として閧を作る鷄の聲を聞いた。やがて私はぱつちりと眼を開けた。そしてその時はじめて昨日の記臆が瞭然と私の腦裡に歸つたので、私は珍しく自發的に起き上つて、臺所に物音をた
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