そして俛いて後の減つた下駄を眺めてゐたが、これで暮まで間に合せて見ようと、何の苦痛もなく心をきめて、それがせめてもの夫の優しい仕打に對する返禮のやうな氣がした。
『まだかい?』
 夫は忙しく戻つて來た。お里は何となく胸をとゞろかせた。
『どこに行つてらして?』と、きかうとしてきかなかつた。
『どうもお待遠さまでございます。』と、亭主は腰を低めて、下駄の齒と齒を喰ひ合せると、小僧に包紙をとらせて、手早く紐を捻つた。
 それを包むとて風呂敷を擴げた時、お里は夫が默つて外套の袖の下から半襟を投げ出しはしないか知らと思つた。
『もう買はない?』と、夫は歩き出しながら言つた。
 さやさやとその袖裏が搖れた時、『そら!』と手から手へ渡されるのではないかと思つた。けれどもそれは冷い空氣を避ける爲に、鼻と口とを押へたのであつた。
 お里は少しく失望した。それでもどうやら夫の袂の中にあの半襟が潜んでゐるやうな氣がして、並んで歩くにも絶えずその邊が氣になつた。
『なんだかいやに默り込んでしまつたね。』と、かう言つて夫に顏を覘かれた時、お里はたゞ薄わらひした。
 何事も知らぬやうに行き過ぎようとする夫の袖の
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