神樂阪の半襟
水野仙子
貧といふものほど二人の心を荒くするものはなかつた。
『今日はお精進かい?』とでも、箸を取りかけながら夫がいはうものなら、お里はそれが十分不足を意味してるのではないと知りながら、
『だつて今月の末が怖いぢやありませんか。』と、忽ち怖い顏になつて聲を荒だてる。これだけ經濟を爲し得たといふ消極的な滿足の傍、夫に對してすまないやうな氣の毒のやうな、自分にしても張合のない食卓なので、恰も急所をつゝかれたやうにおなかの虫が首を曲げるのである。
『何もそんなに聲を尖らせなくたつていゝぢやないか。』と、夫の顏も引き緊つて來る。そしてもたれ合つてゐた愛情が、てんでに自分の持場にかへつて固くなつてしまふやうなことがまゝあつた。
貧といふものほどまた二人の間を親密にするものはなかつた。恰もそれが愛情に注ぐ油ででもあるかのやうに。
『寒くなつたねえ。もう電車に乘つてもコートを着てない人は一人もゐないねえ。さつちやんもどうかして是非一つ作らなけりやあ……』と、夫は改札口を出るといきなりつめたく咽喉を刺す空氣を怖れるやうに、外套の袖で鼻のあたりをおさへながら言つた。
『寒いだらう?』
次へ
全11ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 仙子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング