そのまゝはひつて來るのかと思ふと、
『堅くないやうにたてゝ貰つてね。』と言ひ置いて、またつかつかと阪下の方に向つて歩いて行つた。
『どこに行つたんだらう?』
お里は怪訝さうに目をその後姿にやつた。
『もしや?……』と思つた時は、何となくどきりとした。
『さうかも知れない、あの人のことだもの。』と考へた時は、嬉しさに胸が早鐘のやうに皷動を打つてゐた。
お里は夫が默つて、そつとあの半襟を買ひに行つたのだと思つたのである。さう信じてしまふと、嬉しいやうな、有り難いやうな、先刻の不平だの、味氣なさだのは泡のやうに消えてしまつて、さうまでして自分を劬つてくれる夫の心持が氣の毒にもなつて來る。
『ほんたうにいらなかつたんだのに。』と、しんから氣の毒さうに、その癖嬉しさうに呟く胸を抱へて、『鼻緒をあんまりつめないで下さいな。』と、お里は亭主に言つた。
二人の間に溶けて流れるやうな薄甘い情緒が、この世のかぎりな幸福を齎して、感激の涙が走るやうに瞼をついて出ようとした。お里は慌てゝそれを鼻のあたりに抑へる辛さを覺えながら、『君の下駄も買つときたまへ。』と、今日の出がけに言つた夫の言葉を思ひ出した。
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