ゐた燈がいつか瞼にうるんでゐた。
 あんなけちな安物一つ思のまゝに買ふことができないのだと思ふと、何やらうらめしいやうな氣がしてならない。それに夫が、自分が安物で間に合せようとしたことを認めてくれなかつた不平もある。二圓も出るものを、私はなんで今の場合買はうなんて言はう!
『あの家に入つて見ませう。』と、お里はずんずん夫の先に立つて、毘沙門前の下駄屋にはひつて行つた。
 あれこれと桐の柾のよりごのみをしながら、お里はいつものやうに、あれがいゝのこれが惡いのと嚴しい干渉をしなかつた。
『買ひたまへ!』と、無造作に、大樣にさう言つて貰ひたかつた! そして懷に手を入れかけた時に、主婦らしい考を起して、無駄なことをと、綺麗にあそこを去つて來たかつた!……
『あなた、インキを買ふとか言つてらしたつけ、私ここで待つてますから行つてらつしやいな。』と、お里はやがて臺と鼻緒を選り分けて亭主の手に渡すと、夫に向つてさう言つた。
『うん。』
 外套の袖をさやさやいはせながら夫は出て行つた。お里は腰掛を低い框に引き寄せて、火の氣の薄い火鉢に手を翳しながら、亭主の手許に見入つてゐると、夫は間もなく歸つて來た。
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