《おそ》ろしい絶望《ぜつばう》の夜《よ》を呪《のろ》ひと怒《いか》りに泣《な》きあかした時《とき》、彼女《かのぢよ》はまだ自分《じぶん》を悔《く》ゐてはゐなかつた。たゞ男《をとこ》を怨《うら》んで呪《のろ》ひ、自分《じぶん》を嘲《わら》ひ、自分《じぶん》を憐《あはれ》み、殊《こと》に人《ひと》の物笑《ものわら》ひの的《まと》となる自分《じぶん》を思《おも》つては口惜《くや》しさに堪《た》へられなかつた。彼女《かのぢよ》に若《も》しもその時《とき》子供《こども》がなかつたならば、呪《のろ》ひや果敢《はか》なみや、たゞ世間《せけん》をのみ對象《たいしやう》にして考《かんが》へた汚辱《をじよく》のために、如何《いか》にも簡單《かんたん》に死《し》んでしまつたかも知《し》れない。
人《ひと》の噂《うは》さと共《とも》に彼女《かのぢよ》の傷《いたで》はだん/\その生々《なま/\》しさを失《うしな》ふことが出來《でき》たけれど、猶《なほ》幾度《いくど》となくその疼《いた》みは復活《ふくくわつ》した。彼女《かのぢよ》は靜《しづ》かに悔《く》ゐることを知《し》つた。それでも猶《なほ》その悔《くゐ》には負惜《まけを》しみがあつた。彼女《かのぢよ》はその時《とき》自分《じぶん》の境遇《きやうぐう》をふりかへつて、再婚《さいこん》に心《こゝろ》の動《うご》くのは無理《むり》もないことだと自《みづか》ら裁《さば》いた。それを非難《ひなん》する人《ひと》があつたならば、彼女《かのぢよ》は反對《はんたい》にその人《ひと》を責《せ》めたかもしれない。それからまた彼女《かのぢよ》は、自分自身《じぶんじしん》のことよりも、子供《こども》の行末《ゆくすゑ》を計《はか》つたのだつたといふ犧牲的《ぎせいてき》な(自《みづか》ら思《おも》ふ)心《こゝろ》のために、自《みづか》ら亡夫《ばうふ》の立場《たちば》になつて自分《じぶん》の處置《しよち》を許《ゆる》した。結極《けつきよく》男《をとこ》の不徳《ふとく》な行爲《かうゐ》が責《せ》められた。さうしてたゞ欺《あざむ》かれた自分《じぶん》の不明《ふめい》に就《つ》いてばかり彼女《かのぢよ》は耻《は》ぢたのである。
しかしその後《のち》、彼女《かのぢよ》は前《まへ》にも増《ま》して一|層《そう》謹嚴《きんげん》な生活《せいくわつ》を送《おく》つた。人々《ひと/″\》は彼女《かのぢよ》に同情《どうじやう》を寄《よ》せて、そして二人《ふたり》の孝行《かうかう》な子供《こども》を褒《ほ》め者《もの》にした。誰《だれ》も今《いま》はもう彼女《かのぢよ》の過去《くわこ》に就《つ》いて語《かた》るのを忘《わす》れた。彼女《かのぢよ》の奮鬪《ふんとう》と努力《どりよく》は、十|分《ぶん》に昔《むかし》の不名譽《ふめいよ》を償《つぐな》ふことが出來《でき》た。時《とき》にはまた、あの恐《おそ》るべき打撃《だげき》のために、却《かへつ》て獨立《どくりつ》の意志《いし》が鞏固《きようこ》になつたといふことのために、彼女《かのぢよ》の悔《くゐ》は再《ふたゝ》び假面《かめん》をかぶつて自《みづか》ら安《やす》んじようと試《こゝろ》みることもあつた。彼女《かのぢよ》の悔《くゐ》はいつも反省《はんせい》を忘《わす》れてゐたのである。
月日《つきひ》と共《とも》に傷《きず》の疼痛《いたみ》は薄《うす》らぎ、又《また》傷痕《きずあと》も癒《い》えて行《ゆ》く。しかしそれと共《とも》に悔《くゐ》も亦《また》消《き》え去《さ》るものゝやうに思《おも》つたのは間違《まちが》ひであつた。彼女《かのぢよ》は今《いま》初《はじ》めて誠《まこと》の悔《くゐ》を味《あぢ》はつたやうな氣《き》がした。さうしてそれは何《なん》といふ恐《おそ》ろしいものであつたらう。[#「あつたらう。」は底本では「あつたらう」]
――彼女《かのぢよ》が勉《つとむ》の成長《せいちやう》を樂《たの》しみ過《すご》した空想《くうさう》は、圖《はか》らずも恐《おそ》ろしい不安《ふあん》を彼女《かのぢよ》の胸《むね》に暴露《あばい》て行《い》つた。無垢《むく》な若者《わかもの》の前《まへ》に洪水《おほみづ》のやうに展《ひら》ける世《よ》の中《なか》は、どんなに甘《あま》い多《おほ》くの誘惑《いうわく》や、美《うつく》しい蠱惑《こわく》に充《み》ちて押《お》し寄《よ》せることだらう! 外《そ》れるな、濁《にご》るな、踏《ふ》み迷《まよ》ふなと、一々|手《て》でも取《と》りたいほどに氣遣《きづか》はれる母心《はゝごゝろ》が、忌《いま》はしい汚點《しみ》の回想《くわいさう》によつて、その口《くち》を縫《ぬ》はれてしまふのである。さうしてそれよりも猶《なほ》彼女《かのぢよ》にとつて恐《おそ》ろしいこと
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