は、一|人前《にんまへ》になつた子供《こども》が、どんな風《ふう》に母親《はゝおや》のその祕密《ひみつ》を解釋《かいしやく》し、そしてどんな裁《さば》きをそれに與《あた》へるだらうかといふことであつた。
憐《あは》れむだらうか? 厭《いと》ふだらうか? それともまた淺猿《あさま》しがるだらうか? さうしてあの可憐《いぢら》しくも感謝《かんしや》に滿《み》ちた忠實《ちうじつ》な愛情《あいぢやう》を、猶《なほ》その愚《おろ》かな母《はゝ》に對《たい》してそゝぎ得《う》るだらうか? あゝ若《も》しもさうだとしたならば――? 彼女《かのぢよ》はたゞ子供《こども》のために無慾《むよく》無反省《むはんせい》な愛情《あいじやう》のために、自分《じぶん》は着《き》るものも着《き》ずにこれまでにして來《き》たのであるものを。[#「あるものを。」は底本では「あるものを」]
彼女《かのぢよ》の恐怖《きようふ》は、今《いま》までそこに思《おも》ひ到《いた》らなかつたといふことのために、餘計《よけい》大《おほ》きく影《かげ》を伸《のば》して行《ゆ》くやうであつた。彼女《かのぢよ》は新《あら》たなる悔《くゐ》を覺《おぼ》えた。赤裸々《せきらゝ》に、眞面目《まじめ》に、謙遜《けんそん》に悔《く》ゐることの、悲痛《ひつう》な悲《かな》しみと、しかしながらまた不思議《ふしぎ》な安《やすら》かさとをも併《あは》せて經驗《けいけん》した。彼女《かのぢよ》が今《いま》までの悔《くゐ》は、ともすれば言《い》ひ譯《わけ》の楯《たて》に隱《かく》れて、正面《まとも》な非難《ひなん》を拒《ふせ》いでゐたのを知《し》つた。彼女《かのぢよ》は今《いま》自分《じぶん》の假面《かめん》を引剥《ひきは》ぎ、その醜《みにく》さに驚《おどろ》かなければならなかつた。今《いま》こそ彼女《かのぢよ》は、亡《な》き夫《をつと》の靈《れい》と純潔《じゆんけつ》な子供《こども》の前《まへ》に、たとへ一時《いつとき》でもその魂《たましひ》を汚《けが》した悔《くゐ》の證《あかし》のために、死《し》ぬことが出來《でき》るやうにさへ思《おも》つた。
天《てん》にでもいゝ、地《ち》にでもいゝ、縋《すが》らうとする心《こゝろ》、祈《いの》らうとする希《ねが》ひが、不純《ふじゆん》な沙《すな》を透《とほ》して清《きよ》くとろ/\と彼女《かのぢよ》の胸《むね》に流《なが》れ出《で》て來《き》た。
君子《きみこ》が不審《いぶか》しさに母親《はゝおや》の容子《ようす》に目《め》をとゞめた時《とき》、彼女《かのぢよ》は亡夫《ばうふ》の寫眞《しやしん》の前《まへ》に首《くび》を垂《た》れて、靜《しづ》かに、顏色《かほいろ》青褪《あをざ》めて、身《み》じろぎもせず目《め》をつぶつてゐた。
雨《あめ》はます/\小降《こぶ》りになつて、そして風《かぜ》が出《で》た。木《こ》の葉《は》の露《つゆ》が忙《せは》しく搖《ゆ》り落《おと》される。(をはり)
底本:「淑女畫報」博文館
1915(大正4)年9月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:小林徹
校正:林幸雄
2001年5月15日公開
2006年4月19日修正
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