水野仙子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)ある地方《ちはう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|日《にち》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)もとめ[#「もとめ」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)先《さき》へ/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 ある地方《ちはう》の郡立病院《ぐんりつびやうゐん》に、長年《ながねん》看護婦長《かんごふちやう》をつとめて居《を》るもとめ[#「もとめ」に傍点]は、今日《けふ》一|日《にち》の時間《じかん》からはなたれると、急《きふ》に心《こゝろ》も體《からだ》も弛《たる》んでしまつたやうな氣持《きも》ちで、暮《く》れて行《ゆ》く廊下《らうか》を靜《しづ》かに歩《ある》いてゐた。
『おや、降《ふ》つてるのかしら。』
 彼女《かのぢよ》は初《はじ》めて氣《き》がついたやうに窓《まど》の外《そと》を見《み》て呟《つぶや》く。冷《ひ》え/″\として硝子《がらす》のそとに、いつからか糸《いと》のやうに細《こま》かな雨《あめ》が音《おと》もなく降《ふ》つてゐる、上草履《うはざうり》の靜《しづ》かに侘《わ》びしい響《ひゞき》が、白衣《びやくえ》の裾《すそ》から起《おこ》つて、長《なが》い廊下《らうか》を先《さき》へ/\と這《は》うて行《ゆ》く。
 彼女《かのぢよ》が小使部屋《こづかひべや》の前《まへ》を通《とほ》りかゝつた時《とき》、大《おほ》きな爐《ろ》の炭火《すみび》が妙《めう》に赤《あか》く見《み》える薄暗《うすくら》い中《なか》から、子供《こども》をおぶつた内儀《かみ》さんが慌《あわ》てゝ聲《こゑ》をかけた。
『村井《むらゐ》さん、今《いま》し方《がた》お孃《ぢやう》さんが傘《かさ》を持《も》つておいんしたよ。』
 彼女《かのぢよ》はそこで輕《かる》く禮《れい》を言《い》つて傘《かさ》を受取《うけと》つた。住居《すまゐ》はつひ構内《こうない》の長屋《ながや》の一つであるけれど、『せい/″\氣《き》を利《き》かしてお役《やく》に立《た》つてみせます』と言《い》つてるやうな娘《むすめ》の心《こゝろ》をいぢらしく思《おも》ひながら、彼女《かのぢよ》はぱちりと雨傘《あまがさ》をひらく。寸《すん》ほどにのびた院内《ゐんない》の若草《わかぐさ》が、下駄《げた》の齒《は》に柔《やはら》かく觸《ふ》れて、土《つち》の濕《しめ》りがしつとりと潤《うるほ》ひを持《も》つてゐる。微《かす》かな風《かぜ》に吹《ふ》きつけられて、雨《あめ》の糸《いと》はさわ/\と傘《かさ》を打《う》ち、柄《え》を握《にぎ》つた手《て》を霑《うるほ》す。
 別段《べつだん》さうするやうに言《い》ひつけた譯《わけ》ではなかつたけれど、自然《しぜん》自然《しぜん》に母《はゝ》の境遇《きやうぐう》を會得《ゑとく》して來《き》た娘《むすめ》の君子《きみこ》は、十三になつた今年頃《ことしごろ》から、一|人前《にんまへ》の仕事《しごと》にたづさはるのを樂《たの》しむものゝやうに、ひとりでこと/\と臺所《だいどころ》に音《おと》をたてゝゐたりするやうになつた。今日《けふ》も何《なに》やら慌《あわ》てゝ板《いた》の間《ま》に音《おと》をたてながら、いそ/\と母《はゝ》を迎《むか》へに入口《いりくち》まで出《で》て來《き》た。
『お歸《かへ》んなさい、あんね母《かあ》さん、兄《にい》さんから手紙《てがみ》が來《き》てゝよ。』
『さうかい。』
 彼女《かのぢよ》は若々《わか/\》しく胸《むね》をどきつかせながら、急《いそ》いで机《つくゑ》の上《うへ》の手紙《てがみ》を取《と》つて封《ふう》を切《き》つた。彼女《かのぢよ》の顏《かほ》はみる/\喜《よろこ》びに輝《かゞや》いた。曲《ゆが》みかげんに結《むす》んだ口許《くちもと》に微笑《ほゝゑみ》が泛《うか》んでゐる。
『君《きみ》ちやんや、母《かあ》さんがするからもういゝかげんにしてお置《お》き、兄《にい》さんがはいれたさうだよ、よかつたねえ。』と、あとは自分自身《じぶんじしん》にいふやうに調子《てうし》を落《おと》して、ぺたりとそのまゝ机《つくゑ》の前《まへ》に坐《すわ》つてしまつた。今《いま》の今《いま》まで張《は》りつめてゐた氣《き》が一寸《ちよつと》の間《ま》ゆるんで、彼女《かのぢよ》は一|時《じ》の安心《あんしん》のためにがつかりしてしまつたのである。何《なに》かしら胸《むね》は誇《ほこ》らしさにいつぱいで、丁度《ちやうど》人《ひと》から稱讃《しようさん》の言葉《ことば》を待《ま》ちうけてゐでもするやうにわく/\する。彼女《かのぢよ》は猶《なほ》もその喜《よろ
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