こ》びと安心《あんしん》を新《あら》たにしようとするやうに再《ふたゝ》び手紙《てがみ》をとりあげる。
 彼女《かのぢよ》の長男《ちやうなん》の勉《つとむ》は夢《ゆめ》のやうに成人《せいじん》した。小學時代《せうがくじだい》から學業《がくげふ》品行《ひんかう》共《とも》に優等《いうとう》の成績《せいせき》で、今年《ことし》中學《ちうがく》を卒《を》へると、すぐに地方《ちはう》の或《あ》る專問學校《せんもんがくかう》の入學試驗《にふがくしけん》を受《う》けるために出《で》て行《い》つたのである。今更《いまさら》に思《おも》つてみれば、勉《つとむ》はもう十九である。九つと三つの子供《こども》を遺《のこ》されてからの十|年間《ねんかん》は、今《いま》自分《じぶん》で自分《じぶん》に涙《なみだ》ぐまれるほどな苦勞《くらう》の歴史《れきし》を語《かた》つてゐる。子供達《こどもたち》の、わけても勉《つとむ》の成長《せいちやう》と進歩《しんぽ》は、彼女《かのぢよ》の生活《せいかつ》の生《い》きた日誌《につし》であつた。さうして今《いま》やその日誌《につし》は、新《あたら》しい頁《ページ》をもつて始《はじ》まらうとしてゐるのである。彼女《かのぢよ》は喜《よろこ》びも心配《しんぱい》も、たゞそのためにのみして書《か》き入《い》れた努力《どりよく》の頁《ページ》をあらためて繰《く》つてみて密《ひそ》かに矜《ほこ》りなきを得《え》ないのであつた。
 彼女《かのぢよ》はレース糸《いと》の編物《あみもの》の中《なか》に色《いろ》の褪《さ》めた夫《をつと》の寫眞《しやしん》を眺《なが》めた。恰《あたか》もその脣《くちびる》が、感謝《かんしや》と劬《いた》はりの言葉《ことば》によつて開《ひら》かれるのを見《み》まもるやうに、彼女《かのぢよ》の心《こゝろ》は驕《をご》つてゐた。その耳《みゝ》の許《もと》では、『女《をんな》の手《て》一つで』とか、『よくまああれだけにしあげたものだ』とかいふやうな、微《かす》かな聲々《こゑ/″\》が聞《きこ》えるやうでもあつた。彼女《かのぢよ》は醉《ゑ》ふたやうに、また疲《つか》れたやうに、暫《しばら》くは自分《じぶん》を空想《くうさう》の中《なか》にさまよはしてゐた。
 しめやかな音《おと》に雨《あめ》はなほ降《ふ》り續《つゞ》いてゐる。少《すこ》しばかり冷《ひ》え冷《び》えとする寒《さむ》さは、部屋《へや》の中《なか》の薄闇《うすやみ》に解《と》けあつて、そろ/\と彼女《かのぢよ》を現《うつゝ》な心持《こゝろも》ちに導《みちび》いて行《ゆ》く。ぱつと部屋《へや》があかるくなる。君子《きみこ》は背《せ》のびをして結《むす》ばれた電氣《でんき》の綱《つな》をほどいてゐた。とその時《とき》、母《はゝ》は恰《あたか》もその光《ひか》りに彈《はじ》かれたやうにぱつと起《お》き上《あが》つた。
 今《いま》は彼女《かのぢよ》の顏《かほ》に驕《をご》りと得意《とくい》の影《かげ》が消《き》えて、ある不快《ふくわい》な思《おも》ひ出《で》のために苦々《にが/\》しく左《ひだり》の頬《ほゝ》の痙攣《けいれん》を起《おこ》してゐる。彼女《かのぢよ》は起《た》つて行《い》く。さうして甲斐《かひ》/″\しく夕飯《ゆふめし》の支度《したく》を調《とゝの》へてゐる娘《むすめ》をみると、彼女《かのぢよ》の祕密《ひみつ》な悔《くゐ》にまづ胸《むね》をつかれる。
 やう/\あきらかな形《かたち》となつて彼女《かのぢよ》に萠《きざ》した不安《ふあん》は、厭《いや》でも應《おう》でも再《ふたゝ》び彼女《かのぢよ》の傷所《きずしよ》――それは羞耻《しうち》や侮辱《ぶじよく》や、怒《いか》りや呪《のろ》ひや、あらゆる厭《いと》はしい強《つよ》い感情《かんじやう》を持《も》たないでは見《み》られぬ――をあらためさせなければ止《や》まなかつた[#「止《や》まなかつた」は底本では「止《や》まなつつた」]。彼女《かのじよ》はその苦痛《くつう》に堪《たへ》られさうもない。けれども黒《くろ》い影《かげ》を翳《かざ》して漂《たゞよ》つて來《く》る不安《ふあん》は、それにも増《ま》して彼女《かのぢよ》を苦《くる》しめるであらう。
 町《まち》の小學校《せうがつかう》の校長《かうちやう》をしてゐた彼女《かのぢよ》の夫《をつと》は、一|年間《ねんかん》肺《はい》を病《や》んで、そして二人《ふたり》の子供《こども》を若《わか》い妻《つま》の手許《てもと》に遺《のこ》したまゝ[#「遺《のこ》したまゝ」は底本では「遣《のこ》したまゝ」]死《し》んでいつた。殘《のこ》つたものは彼女《かのぢよ》の重《おも》い責任《せき》と、極《ごく》僅《わづ》かな貯《たくは》へとだけであつた。彼女《かのぢよ》は
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 仙子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング