こ》びと安心《あんしん》を新《あら》たにしようとするやうに再《ふたゝ》び手紙《てがみ》をとりあげる。
 彼女《かのぢよ》の長男《ちやうなん》の勉《つとむ》は夢《ゆめ》のやうに成人《せいじん》した。小學時代《せうがくじだい》から學業《がくげふ》品行《ひんかう》共《とも》に優等《いうとう》の成績《せいせき》で、今年《ことし》中學《ちうがく》を卒《を》へると、すぐに地方《ちはう》の或《あ》る專問學校《せんもんがくかう》の入學試驗《にふがくしけん》を受《う》けるために出《で》て行《い》つたのである。今更《いまさら》に思《おも》つてみれば、勉《つとむ》はもう十九である。九つと三つの子供《こども》を遺《のこ》されてからの十|年間《ねんかん》は、今《いま》自分《じぶん》で自分《じぶん》に涙《なみだ》ぐまれるほどな苦勞《くらう》の歴史《れきし》を語《かた》つてゐる。子供達《こどもたち》の、わけても勉《つとむ》の成長《せいちやう》と進歩《しんぽ》は、彼女《かのぢよ》の生活《せいかつ》の生《い》きた日誌《につし》であつた。さうして今《いま》やその日誌《につし》は、新《あたら》しい頁《ページ》をもつて始《はじ》まらうとしてゐるのである。彼女《かのぢよ》は喜《よろこ》びも心配《しんぱい》も、たゞそのためにのみして書《か》き入《い》れた努力《どりよく》の頁《ページ》をあらためて繰《く》つてみて密《ひそ》かに矜《ほこ》りなきを得《え》ないのであつた。
 彼女《かのぢよ》はレース糸《いと》の編物《あみもの》の中《なか》に色《いろ》の褪《さ》めた夫《をつと》の寫眞《しやしん》を眺《なが》めた。恰《あたか》もその脣《くちびる》が、感謝《かんしや》と劬《いた》はりの言葉《ことば》によつて開《ひら》かれるのを見《み》まもるやうに、彼女《かのぢよ》の心《こゝろ》は驕《をご》つてゐた。その耳《みゝ》の許《もと》では、『女《をんな》の手《て》一つで』とか、『よくまああれだけにしあげたものだ』とかいふやうな、微《かす》かな聲々《こゑ/″\》が聞《きこ》えるやうでもあつた。彼女《かのぢよ》は醉《ゑ》ふたやうに、また疲《つか》れたやうに、暫《しばら》くは自分《じぶん》を空想《くうさう》の中《なか》にさまよはしてゐた。
 しめやかな音《おと》に雨《あめ》はなほ降《ふ》り續《つゞ》いてゐる。少《すこ》しばかり冷《ひ》え
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