のびた院内《ゐんない》の若草《わかぐさ》が、下駄《げた》の齒《は》に柔《やはら》かく觸《ふ》れて、土《つち》の濕《しめ》りがしつとりと潤《うるほ》ひを持《も》つてゐる。微《かす》かな風《かぜ》に吹《ふ》きつけられて、雨《あめ》の糸《いと》はさわ/\と傘《かさ》を打《う》ち、柄《え》を握《にぎ》つた手《て》を霑《うるほ》す。
 別段《べつだん》さうするやうに言《い》ひつけた譯《わけ》ではなかつたけれど、自然《しぜん》自然《しぜん》に母《はゝ》の境遇《きやうぐう》を會得《ゑとく》して來《き》た娘《むすめ》の君子《きみこ》は、十三になつた今年頃《ことしごろ》から、一|人前《にんまへ》の仕事《しごと》にたづさはるのを樂《たの》しむものゝやうに、ひとりでこと/\と臺所《だいどころ》に音《おと》をたてゝゐたりするやうになつた。今日《けふ》も何《なに》やら慌《あわ》てゝ板《いた》の間《ま》に音《おと》をたてながら、いそ/\と母《はゝ》を迎《むか》へに入口《いりくち》まで出《で》て來《き》た。
『お歸《かへ》んなさい、あんね母《かあ》さん、兄《にい》さんから手紙《てがみ》が來《き》てゝよ。』
『さうかい。』
 彼女《かのぢよ》は若々《わか/\》しく胸《むね》をどきつかせながら、急《いそ》いで机《つくゑ》の上《うへ》の手紙《てがみ》を取《と》つて封《ふう》を切《き》つた。彼女《かのぢよ》の顏《かほ》はみる/\喜《よろこ》びに輝《かゞや》いた。曲《ゆが》みかげんに結《むす》んだ口許《くちもと》に微笑《ほゝゑみ》が泛《うか》んでゐる。
『君《きみ》ちやんや、母《かあ》さんがするからもういゝかげんにしてお置《お》き、兄《にい》さんがはいれたさうだよ、よかつたねえ。』と、あとは自分自身《じぶんじしん》にいふやうに調子《てうし》を落《おと》して、ぺたりとそのまゝ机《つくゑ》の前《まへ》に坐《すわ》つてしまつた。今《いま》の今《いま》まで張《は》りつめてゐた氣《き》が一寸《ちよつと》の間《ま》ゆるんで、彼女《かのぢよ》は一|時《じ》の安心《あんしん》のためにがつかりしてしまつたのである。何《なに》かしら胸《むね》は誇《ほこ》らしさにいつぱいで、丁度《ちやうど》人《ひと》から稱讃《しようさん》の言葉《ことば》を待《ま》ちうけてゐでもするやうにわく/\する。彼女《かのぢよ》は猶《なほ》もその喜《よろ
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