ておられるぞ。あの時も意味ありげに仰有《おっしゃ》った筈じゃ。乱世ともならば月を眺めて泣く若侍もひとりや二人は出て参ろうわと仰《おお》せあった謎のようなあの御言葉だけでも分る筈じゃ。たしかにもう御気付きなされたぞ」
「馬鹿を申せ! 誰にも明かさぬこの胸のうちが、やすやすお分り遊ばしてなるものか!第一そう言うおぬしさえも知らぬ筈じゃわ」
「ところが明皎々《めいこうこう》――」
「知っておると申すか!」
「さながらに鏡のごとしじや。ちゃんと存じておるわ。さればこそ、さき程もあのように願ってやったのじゃ。疑うならば聞かしてやろうか」
「聞こう! 言うてみい! まこと存じておるか聞いてやるわ! 言うてみい!」
「言わいでか。当てられて耻掻《はじか》くな。おぬしが女々しゅうなったそもそもはみな奥方にある筈じゃ。契ったばかりの若くて美しいあの恋女房が涙の種であろうがな! どうじゃ。違うか!」
「……!」
 ぎょっと図星を指されでもしたかのように口を噤《つぐ》んだ千之介の影へ門七が、押しかぶせるように嘲笑をあびせかけ乍ら言った。
「みい! アハハ……。見事的中した筈じゃ。俺は嗤《わら》うぞ! わはは。嗤ってやるぞ! 未練者めがっ。会津御援兵と事決まらば、今宵にも出陣せねばならぬゆえ、残して行くが辛さにめそめそ泣いたであろうがな! どうじゃ! 一本参ったか!」
「…………」
「参ったと見えるな。未練者めがっ。たかが女じゃ。婦女子の愛にうしろ髪|曳《ひ》かれて、武士《もののふ》の本懐忘れるとは何のことか! 情けのうて愛想がつきるわ」
「いやまてっ」
「何じゃ」
「たかが女とはきき棄てならぬ。いかにもおぬしの図星通りじゃ。出陣と事決まったらどうしようと思うて泣いたも確かじゃが、俺のあれは、いいや俺とあれとの仲は人と違うわ」
「言うたか。今にそう言うであろうと待っていたのじゃ。ならば迷いの夢を醒《さ》ましてやるために嗅がしてやるものがある。吃驚《びっくり》するなよ」
 まさしくそれは声の上に出さぬ凄艶《せいえん》な笑いだった。深く心に期して待ちうけてでもいたかのように突然門七がにっと笑うと、千之介の鼻先に突き出したものはその左片袖である。
「嗅いでみい! 想い想われて契った恋女房ですらも、やはり女は魔物じゃと言う匂いがこの袖にしみついている筈じゃ。よう嗅いでみい!」
「……?」
「のう! どうじゃ! 合点《がてん》がいったか!」
「よっ。まさしくこの匂いは!――」
「そうよ! お身が恋女房と自慢したあの女の髪の油の匂いじゃわ。ウフフ。迷いの夢がさめたか」
「ど、どう、どうしたのじゃ! この匂いがおぬしの袖についているとは、何としたのじゃ! ど、どうどうしたと言うのじゃ」
「どうでもない。忘れもせぬ夕暮どきじゃ。殿より火急のお召しがあったゆえ、おぬしを誘いに参ったところ、どこへいっていたのかるすなのじゃ。それゆえすぐに引返そうと出て参ったところ、もしあのお袖が、――と恥しそうに呼びとめたゆえ、ひょいと見るとなる程綻《ほころ》びておったのじゃ。やさしいお手で縫うて貰うているうちに、どちらが先にどうなったやら、――それからあとは言わぬが花よ。この通り片袖に髪の油がしみついたと言えば大凡《おおよそ》察しがつこうわ。どうじゃ! 千之! 未練の夢がさめたか!」
「なにっ。うぬと、あれが! あれと、うぬが! ……」
 ふるえて声がつづかなかった。目である。目である。血走った目が青白い月光の中を一散に只飛んでいった。

         四

 勿論《もちろん》千之介の駈け込んでいったのはそのお長屋だった。
「いるか!」
「…………」
「どこじゃ!」
「…………」
「どこにおるか!」
 叫んだつもりだったが、声になって出なかった。五体をふるわし、唇をわななかせ乍ら躍り込んでいった千之介の、血走っているその目にはっきり映ったのは、ほの暗い短檠《たんけい》の灯りをあび乍ら、こちらに背を見せて坐っていた妻の姿である。
 髪が乱れているのだ!
 針箱も側にあるのだ!
「不、不義者めがっ」
 叫ぶのと抜いたのと同時だった。――シュッと血しぶきを噴きあげ飛ばして、若く美しかったその妻は一言の言葉を交わし放つひまもなく、どったりと前のめりにうっ伏した。
 その血刀《ちがたな》ひっさげたまま千之介は、隣りつづきの林田門七のお長屋目ざしつつ駈け出すと、物をも言わず躍り入りざま、そこに今別れたばかりの門七が立て膝し乍ら、灯りに油をさしていたのを見かけてあびせかけた。
「不、不義者めがっ」
 罵《ののし》ったのと斬ったのと同時だった。スパリ、冴えた一刀があの憎らしくも悩ましい片袖もろ共左腕をそのつけ根から斬って放った。――だが刹那である。林田門七もさる者だった。左腕を斬って放たれ乍らも
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