。泊り合わせたその宿の若い内儀が夕方近くから俄《にわ》かに行方知《ゆきかたし》れずになったとやらで、それがよくよく人相など聞いて見ますると、崖ぶちから身を投げたあの女にそっくりそのままで厶りましたのでな、それならばしかじか斯々《かくかく》じゃと言う出家の話から騒ぎが大きくなってすぐに人が飛ぶ、谷底から死骸《むくろ》が運ばれて来る。しらべて見るとやはり宿の内儀だったので厶ります。それゆえせめても救うことの出来なかった詫び心にあとの菩提《ぼだい》でも弔《とむら》いましょうと、身投げした仔細を尋《たず》ねましたところ、亭主が申すには何一つ思い当る事がないと言うのじゃそうで厶ります。ない筈はあるまい。何ぞあるであろうと根掘り葉掘りきき尋ねましたところ、やはり変なことがあったので厶りまする。身投げした十日程前に古着屋から縮緬《ちりめん》の夜具を一組買ったそうで厶りましてな、それを着て寝るようになってから、どうしたことか毎夜毎夜内儀が気味わるく魘《うな》されるばかりか、時折狂気したようにいろいろとわけのわからぬことを口走っては騒ぎ出すようになったと言うので厶ります。――それじゃ。屹度《きっと》それじゃ、その古着の夜具に何ぞ曰《いわ》くがあろうと思い当りましたゆえさすがは出家、さそくに運び出させて仔細に見しらべましたところ――、別に怪しいことはない。ないのに魘されたり、狂い出したり、あげ句の果てに身投げなぞする筈があるまいと一枚々々、夜具の皮を剥《は》がしていってよくよくしらべますると、ぞっといたします。申しあげる手前までがぞっと致します。古着の敷布団の、その一枚の丁度枕の下になるあたりの綿の中から、歯が出て来たと言うので厶りまする。人が歯が、何も物言わぬ人の歯がそれも二枚出て来たと言うので厶ります」
「なにっ。歯が二枚とな! 歯とのう! 人の歯とのう! ……」
ぎょっと水でもあぴたように長国の声がふるえて疳走《かんばし》った。
鬼火のように青あおと燃えていた月光がふっと暗くかげった。――同時である。何ぞ火急のしらせでもあると見えて、キイキイと書院の廊下の鶯張りを鳴らせ乍ら一足《ひとあし》が近づいて来ると、憚《はばか》り顔に声がのぞいて言った。
「茶坊主|世外《せがい》めに厶ります。御老臣|伴《ばん》様が、殿に言上《ごんじょう》せいとのことで厶りました。もう三日もこちら一睡も致さず論議ばかり致しておりましたせいか、人心地《ひとごこち》失いまして、よい智慧も浮びませぬゆえ、まことに我まま申上げて憚《はばか》り多いことで厶りまするが、ひと刻程|睡《ねむ》りを摂《と》らせて頂きましてから、今度こそ必ずともに藩議いずれかに相まとめてお目にかけまするゆえ、今暫く御猶予願わしゅう存じまするとのことで厶ります」
「何を言うぞ! 返す返すも人を喰った老人共じゃ。武士《もののふ》の本懐存じておらば、三日も寝ずに論議せずとも分る事じゃ! たわけ者達めがっ。勝手にせいと申し伝えい!」
疳高く凛《りん》とした声だった。颯《さ》っと褥《しとね》を蹴って立ち上ると苛立《いらだ》たしげに言った。
「予も眠る! 城主なぞに生れたことがくやしいわっ。予も寝るぞ! ――今宵の宿居《とのい》は誰々じゃ。早う参れっ」
足取りも荒々しく消えていったあとから、宿居に当っていた近侍《きんじ》永井大三郎と石川六四郎がお護り申しあげるように追っていった。
平伏しつつ、濃い謎を包みつつ、見送っていた千之介が、ほっとなったように面をあげると、なぜか明るい微笑すらも泛べて、急に元気に立ち上った。無論もうお長屋に帰って、ゆるゆる一夜を明かすことが出来るのである。多々羅も林田も、やはりもう用のない身体だった。――やがて黙々と肩を並べ乍ら三つの影が城内の広場に現われた。
同時のように観音山《かんのんざん》の頂から天守をかすめて、さっとまた月光が三つの影の上にそそぎかかった。
光りは濠《ほり》の水面《みずも》にまでも散りこぼれて、二本松十万石の霞ヶ城は、いち面に只ひと色の青だった。
三つの影はその青の間を縫《ぬ》い乍ら、二ノ濠わきのお長屋目ざして、黙々と歩いていった。
「では――」
「おう、また――」
お長屋の離れている多々羅は右へ、隣り合っている門七と千之介は左へ、覗き松のところから分れて行くのが道順なのである。
分れて二つの影になった千之介と門七は、三歩ばかり黙々と歩いていった。しかし、その四歩目を踏み出そうとしたとき、突然門七が嘲《あざけ》るように千之介に言った。
「馬鹿め!」
「なにっ」
「怒ったか」
「誰とても不意に馬鹿呼ばりされたら怒ろうわ。俺がどうして馬鹿なのじゃ」
「女々《めめ》しいからよ。君前《くんぜん》であの態《ざま》は何のことかい。なぜ泣いたか殿はお気付き遊ばし
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