十万石の怪談
佐々木味津三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)燐《りん》の火

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)城主|丹羽《にわ》長国は、
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         一

 燐《りん》の火だ!
 さながらに青白く燃えている燐の火を思わすような月光である。――書院の障子いちめんにその月光が青白くさんさんとふりそそいで、ぞおっと襟首《えりくび》が寒《さ》む気《け》立つような夜だった。
 そよとの風もない……。
 ことりとの音もない。
 二本松城十万石が、不気味に冴《さ》えたその月の光りの中に、溶《と》け込んで了《しま》ったような静けさである。――城主|丹羽《にわ》長国は、置物のようにじっと脇息《きょうそく》に両肱《りょうひじ》をもたせかけて、わざと灯《あか》りを消させた奥書院のほの白い闇《やみ》の中に、もう半刻《はんとき》近くも端座し乍《なが》ら、身じろぎもせずに黙然《もくねん》とふりそそいでいるその月光を聴《き》きいったままだった。見入《みい》っているのではない。まさしくそれは心に聴き入っていると言った方が適切である。万一の場合を気遣って、御警固|旁々《かたがた》座に控えていた者はたった四人。――いずれも御気に入りの近侍《きんじ》の林四門七と、永井大三郎と、石川六四郎と、そうして多々羅《たたら》半兵衛の四人だった。
 声はない……。
 言葉もない……。
 主従五つの影は、身動きもせず人形のように黙座したままで、いたずらに只さんさんと月光がふりそそいでいるばかりである。――と思われた刹那《せつな》。
「ハハハハハ……」
 突然長国が、引きつったような笑い声をあげた。
「ハハハハ……。ハハハハハ」
 だが、四人の近侍達は驚きの色も現わさないで、ビーンビーンと谺《こだま》し乍ら、洞窟さながらのような城内深くの闇と静寂の中へ不気味なその笑い声の吸われて行くのをじっときき流したままだった。殿の御胸中は分りすぎる程よく分っていたからである。屹度《きっと》おうるさいに違いないのだ。殿御自身はとうに会津中将へ御味方の御決断も御覚悟もついているのに、重臣共がやれ藩名のやれ朝敵のといって何かと言えば薩長ばらの機嫌ばかりを取結ぽうと、毎日毎夜|埒《らち》もない藩議を重ねているのが煩《わずら》わしくなったに違いないのだ。――果然《かぜん》長国が吐き出すように言った。
「いっそもう野武士になりたい位じゃ。十万石がうるそうなったわ。なまじ城持ちじゃ、国持ちじゃと手枷首枷《てかせくびかせ》があればこそ思い通りに振舞うことも出来ぬのじゃ。それにつけても肥後守《ひごのかみ》は、――会津中将は、葵《あおい》御一門切っての天晴《あっぱ》れな公達《きんだち》よ喃《のう》! 御三家ですらもが薩長の鼻息|窺《うかご》うて、江戸追討軍の御先棒となるきのう今日じゃ。さるを三十になるやならずの若いおん身で若松城が石一つになるまでも戦い抜こうと言う御心意気は、思うだに颯爽《さっそう》として胸がすくわ。のう! 林田! そち達はどう思うぞ」
「只々もう御勇ましさ、水際立《みずきわだ》って御見事というよりほかに言いようが厶《ござ》りませぬ。山の頂きからまろび落ちる大岩を身一つで支えようとするようなもので厶ります。手を添えて突き落すは三つ児でも出発る業《わざ》で厶りまするが、これを支え、喰い止めようとするは大丈夫の御覚悟持ったお方でのうてはなかなかに真似《まね》も出来ませぬ。壮烈と申しますか、悲壮と申しますか、いっそ御覚悟の程が涙ぐましい位で厶ります」
「そうぞ。そうぞ。この長国もそれを言うのじゃ。勤王じゃ、大義じゃ、尊王じゃと美名にかくれての天下泥棒ならば誰でもするわ。――それが憎い! 憎ければこそ容保候へせめてもの餞別《はなむけ》しようと、会津への援兵申し付けたのにどこが悪いぞ。のう永井! 石川! 年はとりたくないものよな」
「御意《ぎょい》に厶ります。手前共は言うまでもないこと、家中の者でも若侍達はひとり残らず、今日かあすかと会津への援兵待ち焦《こが》れておりますのに御老人達はよくよく気の永い事で厶ります」
「そうよ。ああでもない。こうでもないと、うじうじこねくり廻しておるのが分別じゃと言うわ。――そのまに会津が落城致せば何とするぞ! たわけ者達めがっ。恭順の意とやらを表したとてもいずれは薩長共に私《わたくし》されるこの十万石じゃ。ほしゅうないわっ。いいや、意気地が立てたい! 長国は只|武士《もののふ》の意気地を貫きたいのじゃ! ――中将程の天晴れ武将を何とて見殺しなるものかっ。――たわけ者達めがっ。のう! 如何《どう》ぞ。老人という奴はよくよくじれったい奴等よのう!」
 罵《ののし》るように呟《つぶや》き乍《なが》ら長国は、いくたび
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