か脇息の上で身をよじらせた。実際またじれったかったに違いない。ほかのことならともかく、こればかりは殿、御一存での御裁決|罷《まか》りなりませぬ。三河乍らの御家名は申すに及ばず、一つ間違わば末代までも朝敵の汚名着ねばならぬ瀬戸際で厶りますゆえ、藩議が相定まりますまで御遠慮下さりませ。そう言って重臣達が主候の長国を斥《しりぞ》け、会津への援兵、是か非かに就いて論議をし始めてからもうまる三日になるのである。――会津中将松平容保が薩長の執拗《しつよう》な江戸追討を憤って、単身あくまでもその暴虐横暴に拮抗《きっこう》すべく、孤城若松に立て籠ってから丁度《ちょうど》六日目のことだった。勿論《もちろん》、その討伐軍は大垣、筑紫の両藩十万人を先鋒にして、錦旗にこの世の春を誇り乍ら、すでにもう江戸を進発しているのだ。右するも左するも事は急なのである。
月が青い……。
慶応四年の春の夜ふけの遅い月が、陸奥《むつ》二本松の十万石をそのひと色に塗りこめて陰火のように青白かった。
「アハハハハ……」
じいっと魅入《みい》られたもののごとく、障子に散りしいているその月光を見眺《みなが》めていた長国が、突然、引きつったように笑って言った。
「馬鹿者共めがっ。アハハハハ……。みい! みい! あの色をみい! まるで鬼火じゃ。二本松のこの城を地獄へつれて行く鬼火のようじゃわ、ハハハハハハ……」
吸い込まれるように声が消えて、城内はやがてまたしいんと静まりかえった。
と思われたとき、――不意にキイキイと、書院のお廊下の鶯張《うぐいすば》りが怪しく鳴いた。
「門七!」
「大三《だいざ》!」
「石川!」
「多々羅!」
顔から顔へ名を呼ぶように目交《めま》ぜが飛ぶと、近侍達は一斉に傍《かたわ》らの脇差をにぎりしめた。――恭順か、会津援兵か、その去就を内偵すべく官軍の密偵達が、平《たいら》、棚倉《たなくら》、福島、仙台、米沢から遠く秋田南部のお城下までも入りこんでいるのは隠れない事実なのである。
四本の脇差の鯉口《こいくち》は、握り取られると同時にプツリプツリと素早く切って放たれた。
だが、不思議である。お抱え番匠万平が、これならばいか程忍びの術に長《た》けた者であっても、決して無事には渡り切れませぬと折紙つけたその鶯張りなのだ。だのに音はそれっきりきこえなかった。
と思われたとき、――キイキイとまた鳴いた。
同時に影だ!
ふりそそいでいる月光の中から障子の面《おもて》が、突然ふわりと黒い人の影が浮び上った。ふた筋三筋|鬢《びん》のほつれ毛がほっそりとしたその顔に散りかかって、力なくしょんぼりとうなだれ乍らまるで足のない人のごとく青白い光りの中に佇《たたず》んでいるのである。
「た、誰じゃ!」
「何者じゃ!」
叫び乍ら門七と大三郎が走りよって、さっと左右から障子を押し開いた刹那、――ぺたぺたと崩れ伏すように影が膝を折ると消え入るような声で言った。
「おそなわりまして厶ります……」
二
「……!」
「……!」
一斉に目が不審の色に燃え乍ら、影と声の主を見守った。
だが、二瞬とたたない凝視《ぎょうし》だった。城主長国の声がおどろきと悦《よろこ》びに打ちふるえ乍ら、月光の中の影に飛んでいった。
「おう! そちか! ――波野よな! 千之介じゃな!」
「はっ……。おそなわりまして厶ります……」
「小気味のよい奴じゃ。丹羽長国の肝《きも》を冷やさせおったわ。わっはは。井戸の中からでも迷うて出おったかと思ったぞ。来い。来い。待っておった。早うここへ来い」
「はっ……。参りまする……。只今それへ参りまするで厶ります……」
どうしたことか、這入《はい》って来た時の影のように力なく打ち沈んだ声で答え乍ら、おどおどとして主侯の近くへ進んでいったのは、同じお気に入りの近侍波野千之介である。しかし座を占めると同時だった。不思議なことにその千之介が君前《くんぜん》の憚《はばか》りもなく、突然、声をこらえ乍ら幽《かす》かに忍び泣いた。
「なに! 泣いているな! どうしたぞ。解《げ》せぬ奴じゃ。何が悲しいぞ!」
「…………」
「のう! 言うてみい! 何を泣いておるのじゃ!」
「いえあの、な、泣いたのでは厶《ござ》りませぬ。不調法御免下さりませ。風気《ふうき》の気味が厶りますので、つい鼻が、鼻がつまったので厶ります……」
「嘘をつけい!」
見えすいたそんな言いわけを信ずる長国ではないのである。――ぐいと脇息の前に乗り出して来た顔から、追及の声がうなだれている千之介のところへ迫っていった。
「言うてみい! 言うてみい! のう! 遠慮は要らぬぞ。悲しいことがあらば残らずに言うてみい!」
「…………」
「気味のわるい奴よ喃《のう》。なぜ言わぬぞ。そう言えば来
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