としていたが、
「わるかったのね。あなたばかりひとりぽっちにしておいて、それがお寂《さみ》しかったから、そんなに悲しそうにしておいでなのでしょう。――こんどはきっと……。こうしてさしあげたらいいでしょう」
ささやくように言い乍ら近寄って、突然、軟らかく平七の手を握りしめたかと思うと、リンリンと簪を鳴らし乍ら、逃げるように門の中へ駈けこんでいった。
二階へあがって、見送ってでもいるらしく、顔のみえない窓から、同じ簪の音がかすかにリンリンときこえた。
三
「平七。――これよ、平七平七」
「…………」
「毎日毎日耳の遠い奴じゃな。平七はどこじゃ。平《へい》はおらんか!」
あくる日の夕方、また有朋が、とげとげしい声で奥から呼び立てた。
庭へ廻れというだろうと思って待っていたのに、しかし、どうしたことか、きょうは、その庭の向うから、下駄の音が近づいて来たかと思うと、声と同じように尖《とが》った顔がひょっこりとのぞいた。
「なんじゃ。また靴を磨いておるのか」
きのうと同じように平七は、裏木戸のそばの馬小屋の前に蹲《うずく》まって、有朋が自慢の長靴をせっせと磨いていたところだった。
それが機嫌をよくしたとみえて、有朋のとげとげしく長い細い顔が、珍らしく軟らいだ。
「おまえ、どうかすると馬鹿ではないかと思うときがあるが、使いようによっては、なかなか律義《りちぎ》もんじゃな。わしが大切にしている靴だから、大切に磨かずばなるまいという心掛けが、育ちに似合わずなかなか殊勝《しゅしょう》じゃ。もう少しはきはきしておったら、出世出来んもんでもないが……」
「…………」
クスクスと平七が突然笑った。
「なにがおかしい! ――どこがおかしいんじゃ」
「わたしはそんなつもりで、磨いていたわけではないんですが」
「ではどんなつもりで磨いたというんじゃ」
「こうやってぼんやり手を動かしておると、心持が馬鹿になれますから、それで磨いていたんですが」
「またそういうことを言う! そういうことを言うから、なんとか出世の道を開いてやろうと思っても、する気になれんのじゃ。馬鹿になる稽古《けいこ》をするというならそれでもいいが……」
ぽかりと穴があいたように、突然そのときどうしたことか、平七のもたれかかっていた裏木戸が、ギイとひとりでに開《あ》いた。
すぐにそこから小径《こ
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