山県有朋の靴
佐々木味津三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)平七《へいしち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)狂介|権助《ごんすけ》
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         一

「平七《へいしち》。――これよ、平七平七」
「…………」
「耳が遠いな。平七はどこじゃ。平《へい》はおらんか!」
「へえへえ。平はこっちにおりますんで、只今、お靴《くつ》を磨《みが》いておりますんで」
「庭へ廻れ」
「へえへえ。近ごろまた東京に、めっきり美人がふえましたそうで、弱ったことになりましたな」
「またそういうことを言う。貴様、少うし腰も低くなって、気位《きぐらい》もだんだんと折れて来たと思ったらじきに今のような荊《とげ》を出すな。いくら荊を出したとて、もう貴様等ごとき痩《や》せ旗本の天下は廻って来んぞ」
「左様でございましょうか……」
「左様でございましょうかとは何じゃ。そういう言い方をするから、貴様、いつも叱《しか》られてばかりいるのじゃ。おまえ、郵便報知《ゆうびんほうち》というを知っておろうな」
「新聞社でございますか」
「そうじゃ。あいつ、近ごろまた怪《け》しからん。貴様、今から行ってネジ込んで参れ」
「なにをネジ込むんでございますか」
「わしのことを、このごろまた狂介《きょうすけ》々々と呼びずてにして、不埒《ふらち》な新聞じゃ。山県有朋《やまがたありとも》という立派な名前があるのに、なにもわざわざ昔の名前をほじくり出して、なんのかのと、冷やかしがましいことを書き立てんでもよいだろう。新聞が先に立って、狂介々々と呼びずてにするから、市中のものまでが、やれ狂介|権助《ごんすけ》丸儲《まるもう》けじゃ、萩のお萩が何じゃ、かじゃと、つまらんことを言い囃《はや》すようになるんじゃ。怪しからん。今からすぐにいって、しかと談じ込んで参れ」
「どういう風《ふう》に、談じ込むんでございますか。控えろ、町人、首が飛ぶぞ、とでも叱って来るんでございますか」
「にぶい奴じゃな。山県有朋から使いが立った、と分れば、わしが現在どういう職におるか、陸軍、兵部大輔《ひょうぶたゆう》という職が、どんなに恐ろしいものか、おまえなんぞなにも申さずとも、奴等には利《き》き目《め》がある筈《はず》じゃ。すぐに行け」
「へえへえ。ではまいりますが、この通りもう夕ぐれ近い時刻でご
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