ざいますから、かえりは少々おそくなるかも存じませんが、今夜もやはり、こちらでございますか。それとも御本邸の方へおかえりでございますか」
「そんなつまらんことも聞かんでいい。おそくかえって、わしの姿がここに見えなかったならば、本邸へかえったと思うたらよかろう。思うたらおまえもあちらへかえったらよかろう。早く出かけい」
「…………」
風に吹かれている男のように、平七は、ふらふらと、三《み》めぐりの土手の方へあがっていった。
とうにもう秋は来ている筈なのに、空はどんよりと重く汚れて曇って、秋らしい気の澄みもみえなかった。
もしそれらしいものが感じられるとすれば、土手の青草の感じの中に、ひやりとしたものが少し感じられるくらいのものだった。
そういう秋の情景のない秋の風景は、却《かえ》って何倍か物さびしかった。
平七は、ぼんやりとした顔つきで、ふらふらと土手を下《しも》へ下って行くと、吾妻《あづま》橋の方へ曲っていった。
僅《わず》かに感じられる江戸の名残りだった。たまり水のように、どんよりと黒い水を張った大川の夕ぐれが、点々と白い帆を浮かせて、次第に広く遠く、目の中へひろがって来たのである。
まだ廃刀令《はいとうれい》も断髪令《だんぱつれい》も出てはいなかったが、しかし、もう大小《だいしょう》なぞ無用のものに思って、とうから腰にしていない平七は、でも、そればかりはせめてもの嗜《たしな》みに残している髷《まげ》の刷毛《はけ》さきを、そっと片手で庇《かば》うように押えて、残った片手で、橋の欄干《らんかん》をコツコツと叩《たた》き乍《なが》ら、行くでもなく止まるでもなく、ふわふわと、凧《たこ》のようにゆれていった。
「川、川、川」
「舟、舟、舟だ」
「水もだんだんと濁って来たなあ……」
ふわりと止まると、平七は、コツコツとやっていたその手の中へ、投げこむように頤《あご》をのせて、ぼんやりと水に目をやった。
あれからもう何年ぐらいになるか、――やはりこんなような秋の初めだった。
場所も丁度《ちょうど》、この橋の川上だった。久しく打ち絶えていた水馬《すいば》の競技が、何年かぶりにまた催《もよお》されることになって、平七もその催しに馳《は》せ加わった。
いずれも二十《はたち》から二十五六までの、同じような旗本公子ばかりだった。人心は、日ごとに渦巻《うずま》く戦乱騒
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