不意にそのとき、ガラガラした声が、下からあがって来ると肥《ふと》った女中が、ぺったりとそばへ来て坐って、とりなすように言った。
「罪なことをするのね。こんなおとなしい人をひとりぽっちにしておいて、まずかったでしょう、お酒が」
「昔からおれはひとりぽっちだ」
 突然、平七が怒ったように言った。――しかし本当に怒ったわけではなかった。
「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ……」
 しばらく間をおいてから、思い出したように笑うと、ぽつりと女に言った。
「前の川は今でも深いかね」
「深いですとも、江戸が東京に変ったって、大川は浅くなりゃしないですよ」
「そういうものかな。じや江戸が東京になっても、人が死ねるところでは、やっぱり人が死ねるということになるんだな」
「まあ。気味のわるいことを仰有《おっしゃ》るのね。なんだってそんなおかしなことをおききなさいますの?」
「むかしからこの前の川で何人ぐらい死んだか。変らないものはいつまで経《た》っても変らないから、妙なもんだと思っていたところさ。――貴君はいくつだね」
「おい……」
 話の腰を折るように、その時新兵衛が、向うの暗い部屋から顔だけ出すと、頤をしゃくって言った。
「もうかえるんだよ」
「……? あ、そうか。花は散ったか」
 ふらりと立ちあがって、平七は、こともなげな顔をし乍ら、のそのそとおりていった。
 水にも土手にも、しっとりと闇《やみ》がおりて、かすかな夜露《よつゆ》が足をなでた。
 どこにいるのか、暗いその川の中で、ギイギイと櫓《ろ》が鳴った。
 充《み》ち足《た》りたらしく新兵衛が、上機嫌な声で、暗い土手の闇の中からせき立てた。
「貴公どっちへかえるんじゃ」
「うん……」
「うんじゃないよ。なにをそんなところでぼんやりしておるんじゃ」
「うん……。なるほどこのあたりは、むかし通り深そうじゃな。だぶりだぶりと水が鳴っているよ」
「つまらんことを感心する奴じゃ。ぼんやりしておったら置いてゆくぞ」
 不意にうしろで、リンリンと、簪《かんざし》が鳴った。
 恥しそうに襖《ふすま》の奥へかくれ乍ら、顔も見せなかったのに、いつのまにかこっそりと新兵衛を送って来ていたとみえて、ためらい、ためらい、あの小娘が花簪の音を近づけると、土手ぎわにしょんぼりと立っている平七の黒い影を、じっと見すかし乍ら、なにか言いたそうに、暫《しばら》くもじもじ
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