た策であるか、もしも治右が陰に動いて、破邪顕正の大役承わる大目付までをもおのが薬籠中《やくろうちゅう》のものにしているとしたら、ゆめ油断はならぬ。おそらく将軍家の耳にも、身の潔白は歪められて、ゆうべの一条もあることないこと様々に尾ひれをつけた上、さもこちらからお紋の方にゆるしがたき不義の恋しかけたごとく言上されているに違いないのです。
主水之介は、ぐいと丹田に力を入れて、静かに腹をなでました。
黒が白と通る将軍家です。
ましてやその一|顰《びん》一笑によって、国も傾く女魔《にょま》がおつきなのです。
下乗橋《げじょうばし》からお庭伝いに右へいって、中ノ口。そこが名だたる江戸御本丸の中ノ口大玄関でした。
「大目付、溝口豊後守様、御登城にござりますうウ……」
「おあと、早乙女主水之介殿、御案内イ……」
時ならぬ夜の登城でした。呼び立てたお城坊主に案内されて、大廊下、中廊下を曲りながら導かれていったところは、老中御用都屋につづいた中御評定所《なかごひょうじょうしょ》です。
主水之介の席は、はるかに下がって左り。
右は、腰本治右衛門が控えるだろうと思われたのに、それらしい気色もない、御前裁きというからには、両々対決さすべきが当然であるのに、座の容子ではまさしく片手裁きです。
お坊主たちを促して、何かと手配させている豊後の顔は真ッ青でした。
その顔は、闇から闇へ葬ることの出来なかったことを恐るる色でした。
御直裁《ごじきさい》を仰ぐと言ったものの、栽きを仰いでもし一主水之介、身の潔白を立て通しえたら、大目付職務の面目は丸潰れなのです。人を呪ったその穴は、おのが足元にぽっかりとあいて来るのです。
城内、夜陰の気はしんしんと引きしまって、しわぶきの音一ツない。
主水之介のおもても冴えて白く、光るのは只眉間傷ばかり。
将軍家は大奥入りをしていられるとみえて、お坊主の顔がのぞいては消え、消えてはまたのぞきながら、しきりと豊後守の青い顔と何か囁き合っていたが、やがてのことにお廊下をこちらへ、高々と呼び立てた声があがりました。
「御出座!」
右と左と、豊後、主水之介、ふたりの姿がはッと平伏したのと一緒に、ちょこちょこと出て来たのは赤白まだらの犬です。お犬公方様またなき御愛犬と見えて、お守役のお城小姓がふたり。
「五位さま、こちらこちら。お席はここでござります」
変哲《へんてつ》もない只の犬だが、八百万石御寵愛の犬とあってはこれも御威光広大、位も五位と見えて、尾の長い五位さまがいとも心得顔に、将軍家お褥《しとね》のかたわらへちょこなんと坐ったところへ、荒々しいたたみの音がつづいて、お犬公方綱吉公のけわしい顔が現れました。
同時です。
「不所存者めがッ。どの顔さげて参った!」
はぜるような雷声《かみなりごえ》が、主水之介の頭上へ落ちかかりました。
よくよく御癇癖《ごかんぺき》が募《つの》っているとみえるのです。それっきり、褥《しとね》を取ろうともせずに立ちはだかったまま、じりじりとしていられたが、意外なところへさらに大きな飛び雷が落ちました。
「豊後も何じゃ! うつけ者めがッ」
「はッ」
「は、ではない! このざまは何のことじゃ! なぜ、なぜ、――なぜ主水之介を生かして連れおった!」
思いもよらぬ御諚《ごじょう》です。
主水之介は、はッとなりました。おそらく首にして連れいとの御内命があったに相違ない。あったればこそ、生かして連れて来たことがお叱りの種にもなったのです。この雲行から察すると、治右の手がすでに将軍家にまでも伸びているのは言うまでもないこと、一言半句の失言があっても、御気色《みけしき》は愈々|険悪《けんあく》、恐るべき御上意の下るのは知れ切ったことでした。
しかし主水之介は、森々沈着、神色また自若、しいんと声を含んで氷のごとく冷たく平伏したままでした。
その頭上へ、立ちはだかったままの将軍家の尖《と》げ尖げしい声がふたたび落ちかかりました。
「憎い! 憎い! 憎いと申すも憎い奴じゃ! 不埓者めがッ。顔あげい!」
「………」
「なぜあげぬ! 顔あげてみい!」
「………」
「あげぬな! 不届者めがッ。それにて直参旗本の職分立つと思うか! たわけ者めがッ。治右よりその方の不埓、逐一きいたぞ。お紋を何と心得ておる! 言うも憎い奴じゃ! 顔あげてみい!」
しかし主水之介は、ことさらに押し黙って、しんしんと静かに平伏したままでした。賢明な策です。立ちはだかったままで、お褥も取らないほどに御癇癖が募っている今、何を申上げたとてお耳に這入る筈はないのです。ないと知って、とやかく弁明したら、弁明したことがなお御癇癖に障るは必定、障ったら切腹、改易《かいえき》、お手討ち、上意討ち、黒白正邪をつけないうちに、只お憎しみ一途の御諚が下るのは知れ切ったことでした。
すべては御癇癖が鎮まってからのこと。その御気色の軟らぐのを待つために、ことさら押し黙って、ことさらにおもてもあげずしんしんと平伏をつづけました。
策は当った。
次第に御癇の虫が軟らいだとみえて、先ずお座へ就かれました。
「茶! 茶! お茶はいずれじゃ」
「御前《おんまえ》にござります……」
お召しあがりになった気はいでした。
咽喉《のど》の乾きが止まれば、御癇の虫も止まる。
案の定、声にはまだ嶮《けわ》しい名残りがあったが、どうやら御心も鎮ったらしい御諚が下りました。
「申開きあらば聞いてえさせる。顔あげい!」
「はッ……」
もう頃合いです。
静かにおもてをあげると、朗々とめでたくもなだらかな声が流れ出しました。
「いつにないお爽やかな御気色《みけしき》、主水之介何よりの歓びにござります」
「なに! 爽かな御気色とは何じゃ! 予の怒った顔がそちには爽やかに見ゆるか!」
「またなきお爽やかさ、天下兵馬の権を御司《おんつかさど》り遊ばす君が、取るにも足らぬ佞人《ねいじん》ばらの讒言《さんげん》おきき遊ばして、御心おみだしなさるようではと、恐れながら主水之介、道々心を痛めて罷り越しましてござりまするが、いつにも変らぬそのお爽やかさ、さすがは権現様《ごんげんさま》お血筋、二なき御明君と主水之介よろこばしき儀にござります」
「黙れッ! たわけッ。佞人ばらとは何じゃ! 誰のことじゃ!」
「すなわち腰本治右衛門、まったお紋の方様、倶《とも》に天を戴きかねる佞人にござります」
「黙れッ。黙れッ。紋が佞人とは何じゃ! お紋は予が寵愛の女、またなく可愛い奴じゃ。たわけ申すと許さぬぞッ」
「それこそ佞人の証拠、御明君のお目を紊《みだ》し奉つるが何より佞人の証拠にござります。上は天晴れ御明君、われら直参旗本が自慢の御明君――」
「黙れッ、黙れッ、黙らぬかッ」
「いいや、上は御明君、天下に誇るべき御明君、主水之介もまたつねづねそれを思い、これを思い――」
「黙れと申すに黙らぬかッ」
「いいや、上は天晴れ御明君、天下二なき御明君を戴き奉つることほど、よろこばしき儀はござりませぬ。女魔と申すものはとかく美しきもの、御寵愛はさることながら、それゆえにお上ほどの御明君が、正邪のお目違い遊ばされたとあっては由々《ゆゆ》しき大事、只々御明察のほど願わしゅうござります……」
一にも明君、二にも明君、只明君々々と明君ずくめで押し通しました。賢明な策です。暗愚と言われたよりも明君と言われたら、八百万石のお心持も、さぞやいいお心持だったに違いない。将軍家のお顔いろは、果然軟らぎました。
「では、治右の申せし事、その方はみな偽りじゃと申すか」
「御意にござります。どのようなことどもお耳へ入れ奉ったかは存じませぬが、早乙女主水之介も三河ながらの由緒ある旗本、恐れながら上《かみ》、御寵愛のお部屋様ときくも憚《はばか》り多い不義密通なぞ致すほど、心腐ってはおりませぬ。すべて腰本治右の企らみましたるつくりごと、御賢察願わしゅうござります」
「でも治右は、その方がささに酔いしれて、紋にたわむれかけたと申しおるぞ」
「以ってのほかの讒言《ざんげん》、みなこの早乙女主水之介を罪ならぬ罪に陥し入れようとの企らみからでござります。上も御承知遊ばす通り、あの者はもと卑しき黒鍬上がり、権に驕《おご》って、昨今の身分柄もわきまえず、曲輪の卑しきはした女《め》に横恋慕せしが事の初まりにござります。小芳と申すその女、他へかしずきしを嫉《ねた》んで、あるまじき横道しかけましたを、はからずも主水之介、目にかけまして力となったが治右には目ざわり、あろうことかあるまいことか、上、御寵愛のお紋の方様をそそのかし、場所も言語同断の伝通院へこのわたくしを招き寄せ、ささのたわむれ、お膝のたわむれ、申すも恐れ多い御振舞い遊ばされたのでござります」
「なぜたわむれた! よしや治右《じえ》の企らみであろうとも紋は予が寵愛の女じゃ。知りつつその方がまたなぜたわむれた!」
「天下の為、上、御政道の御為にござります」
「たわけめッ! 将軍家が寵愛の女の膝にたわむるが何ゆえ天下の為じゃ!」
「父娘《おやこ》、腹を合せて不義を強《し》いるような不埓者、すておかば恩寵《おんちょう》に甘えて、どのような非望企らむやも計られませぬ、知りつつお膝をお借り申し奉ったは、みな、主水之介、上への御意見代り、いずれはお膝を汚し奉ったことも、御上聞に達するは必定《ひつじょう》、さすれば身の潔白もお申し開き仕り、御前に於て黒白のお裁き願い、君側の奸人《かんじん》どもお浄《きよ》め奉ろうとの計らい、君側の奸を浄むるはすなわち天下のため、上御政道のお為にござります」
「たわけめッ」
「は?」
「たわけじゃと申すわい」
「有難きしあわせ、早乙女主水之介は天下第一の大たわけ者でござります。さりながら、このたわけは只のたわけではござりませぬ。三河ながらの旗本はみなたわけ者、上、御政道、天下の為なら喜んでいのち棄てるたわけ者ばかりでござります。主水之介、天地に誓って身は潔白、御疑念晴れませねば、只今このところにおきまして、お紋の方様と対決致しましても苦しゅうござりませぬ」
「対決?」
「はッ。それにても御疑念晴れませねば伝通院の坊主どもお招きの上にて対決するともなお苦しゅうござりませぬ。上は二なき御明君、御明察願わしゅうござります」
「いずれにしても不埓者じゃ、不、不埓者めがッ」
「恐れ入ってござります。不義を強《し》いて天下を紊《みだ》そうといたしましたるは治右が不埓か、或いはまた貸すべからざる膝貸し与えたお紋の方様が不埓か、それとも御怒りに触るるを覚悟で、御意見代りにお膝汚し奉ったこの主水之介が不埓か、黒白は上のお目次第、もし万一、主水之介に不埓ありとの御諚《ごじょう》ならば、切腹、お手討、ゆめいといませぬ。おじきじきのお裁き願わしゅうござります」
「………」
「恐れながら御賢慮のほど、いかがにござります」
「憎い。いや、もう聞きとうない! 予は気分がわるうなった。見苦しい。もうゆけい!」
清浄潔白、理非を正した主水之介の言葉に、怒りの的がなくなったのです。何ということもなく睨《にら》みつけて、やり場に困るお怒りをじりじりと押えつけていられたが、さッと褥を蹴って立ち上がると、荒々しげにおすだれ屏風のうしろへ消えました。
しかし、よくよく御憤懣《ごふんまん》のやり場がなかったとみえるのです。つかつかとまたかえって来ると、叱りつけました。
「豊後、そちも不埓な奴じゃ。その方の申条とは大分違っておるぞ。憎い奴めがッ。ゆけい!」
去りかけて、何となくまだそれではお胸のもやもやが晴れなかったとみえるのです。
「治右も不埓じゃ。お紋も不埓じゃ。いや、紋は可愛い。憎いは膝じゃ。たわけものたちめがッ。御意見代りに大切《だいじ》な膝借りるというたわけがあるかッ。貸すというても遠慮するが当りまえじゃ。三河流儀の旗本どもは骨が硬《かと》うて困る。お紋の膝だけは爾後《じご》遠慮するよう気をつけい。五位、行くぞ。参れ」
犬はお膝がないから、しあわせでした。くるりと巻いた尾をふっ
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