旗本退屈男 第十一話
千代田城へ乗り込んだ退屈男
佐々木味津三
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)神田明神《かんだみょうじん》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)三年|曲輪《くるわ》の水で
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「詫」は底本では「詑」と誤植]
−−
一
その第十一話です。少し長物語です。
神田明神《かんだみょうじん》の裏手、江戸ッ児が自慢のご明神様だが、あの裏手は、地つづきと言っていい湯島天神へかけて、あんまり賑やかなところではない。藤堂家《とうどうけ》の大きな屋敷があって、内藤豊後守《ないとうぶんごのかみ》の屋敷があって、ちょっぴりとその真中へ狭まった町家のうちに、円山派《まるやまは》の画描き篠原梅甫《しのはらばいほ》の住いがある。
大していい腕ではないが、妻女の小芳《こよし》というのがつい近頃まで吉原で明石《あかし》と名乗った遊女あがりで、ちょっと別嬪《べっぴん》、これが町内での評判でした。
そのほかに今一つ、世間町内の評判になっているものがある。住いの庭にある生き埋めの井戸というのがそれです。
勿論この住いは、篠原梅甫が今の妻女の小芳を吉原から身請《みうけ》したとき、場所が閑静なのと、構えの洒落《しゃれ》ている割に値が安かったところから買い取ったものだが、安いというのも実はその生き埋めの井戸というあまりぞッとしない景物があったからのことでした。その井戸のある場所がまた変なところで、玄関の丁度右、寒竹《かんちく》が植わって、今は全く井戸の形も影もないが、人の噂によると、昔、ここは神谷なにがしというお旗本の下屋敷で、その某《それがし》の弟君というのが狂気乱心のためにここへ幽閉されていたところ、次第に乱行が募ったため、三河以来の名門の名がけがされるという理由から、むざんなことにもこの井戸へ生き埋めにされたと言うのです。
だから出る。
いいや、出ない。
出たとも。ゆうべも出たぞ。日の暮れ頃だ。あの寒竹の中から、ふんわり白い影が、煙のようにふわふわと歩き出したとかしないとか、噂とりどり。評判もさまざま。
「馬鹿言っちゃいけねえ。惚れた女と一緒になって、むつまじいところを見せてやりゃ、幽霊の方が逃げらあな。それに井戸はもう埋めてあるし、家だって造りは変っておるし、出て来りゃ、おまえとふたりでのろけをきかすのさ。これが二十たア安いもんだ。新世帯にかっこうだぜ」
買って住み出したのが五月のつゆどき。
画はそんなにうまくはないが、篠原梅甫、真似ごとにやっとうのひと手ふた手ぐらいは遣って、なかなかに肝が据っているのです。
「よそで食ってもうまくねえ。おまえのお給仕が一番さ。おそくなっても晩にゃ帰るからね。やっこ豆腐で、一本たのんでおくぜ」
出来あがった画を浅草へ持っていって、小急ぎに帰って来たのが六月初めのむしむしとする夕まぐれ……。
ひょいと玄関の格子戸へ手をかけようとすると、ふわりと煙のような影だ。寒竹の繁みがガサガサと幽《かす》かにゆれたかと思うと、うす白い男の影がふんわり浮きあがりました。
「誰だッ」
「………」
「まてッ。誰だッ」
そのまにすうと煙のように向うへ。
肝は据っていたが、いいこころもちではない。少し青ざめて這入ってゆくと、妻の小芳が湯あがりの化粧姿もあらわに、胸のあたり、乳房のあたり、なまめかしい肉の肌をのぞかせながら気を失って打ち倒れているのです。
「どうした!」
「俺だ! 小芳! どうしたんだ!」
「あッ……」
ふッと息を吹きかえすと、
「怕い!……。怕い怕い!……」
かきすがりざま訴えた言葉がまた奇怪でした。
「白い影が……、煙のような男の影が……」
「のぞいたか!」
「そうざます。お湯からあがって、身仕舞いしているところへ、あのうす暗い庭さきからふうわりとのぞいて、また向うへ――」
梅甫、ききながらぎょッと粟つぶ立ちました
「アハハ……。気のせいだよ」
「いいえ、ほんとうざます。ほかのことはぬしにさからいませぬが、こればっかりは――」
ぞッと水でも浴びたように身ぶるいさせると、もう懲《こ》りごりと言うように訴えました。
「このようなうちに住むは、もういっ刻もいやざます。今宵にもどこぞへ引ッ越してくんなまし」
「馬鹿言っちゃいけねえ。俺もちらりと、――いいや、ちらりと見たという奴が目のせい、気のせい、みんなこっちの心で作り出すまぼろしさ、今御繁昌のお江戸に幽霊なんかまごまごしておってたまるかよ。それよりいい話があるんだ。おまえの兄さんに会ったぜ」
「まあ! いつ、どこで?」
脅えていた小芳の顔が、急にはればれと晴れ渡りました。
「兄さんなら、下総《しもふさ》にいらっしゃる筈、嘘でありんしょう」
「嘘なもんか? 用を足して、来たついでだからと、観音さまにお詣りしていたら、ぽんと肩を叩いて、篠原の先生、という声がするじゃないかよ。ひょいとみたら田舎の兄さんさ。よいところじゃ、小芳も会いたがっておりますから、一緒にどうでござんすと誘ったが、ぜひにも今夜足さなくちゃならない用が馬道とかにあるから、今は行かれない、その代りあしたの朝早く行こうと言うからね。あすならなお幸い、小芳とふたりで森田座《こびきちょう》へ行くことになっているから、じゃ御一緒にあんたも芝居見はどうでござんすと言ったら大よろこびさ。朝早く起きぬけにこっちへやって来ると言ったよ」
「でも、不思議でござんすな。江戸へ来るなら来るとお便り位さきによこしておきそうなものなのに、忙しいお身体の兄さんがまた、何しに来たんでござんしょう」
「何の用だか知らないが、今朝、早立ちしたと言ってたよ。それから、こんなことも言ってたぜ。小芳め、さぞかし尻《しり》に敷くことでござんしょうな、とね。アハハ……」
「ま! いけすかない……。でも、兄さんが来るときいてすこうし胸がおちつきました。もういや! これから、わちきひとりにさせたらいやざんすよ。今のような怕いことがあるんだから……」
丸あんどんの灯影《ほかげ》の下を、小芳のむっちりとした湯上がりの肉体が、不気味な生き物かなんかのように、ぐいと梅甫の両腕の中にいだきよせられました。
二
「これはようこそ。毎度、ご贔屓《ひいき》さまにありがとうござんす。まもなく二番目が開きますゆえ、お早くどうぞ。ひとり殖《ふ》えた、三人にしろとゆうべお使いがござりましたんで、ちやんと平土間が取ってござります……」
「じゃ兄さん……」
顔なじみの出方に迎えられて導かれていった桟敷《さじき》は、花道寄りの恰好な場所でした。――下総から来た小芳の兄というのは、打ち見たところ先ず三十五六。小作りの実体《じってい》そうな男です。そのあとから小芳、つづいて梅甫、兄さんなる男も梅甫も別に人目を引く筈はないが、この日の小芳はまたいちだんの仇っぽさ。こういうところへ来ると、三年|曲輪《くるわ》の水でみがきあげた灰汁《あく》の抜けた美しさが、ひとしお化粧栄えがして、梅甫の鼻もまた自然と高い……。
出しものは景政雷問答《かげまさいかずちもんどう》、五番続き。
もう中日はすぎていたが、団十郎《なりたや》と上方くだりの女形《おやま》、上村吉三郎《うえむらきちさぶろう》の顔合せが珍しいところへ、出しものの狂言そのものが団十郎自作というところから、人気に人気をあおって、まこと文字通り大入り大繁昌でした。
「兄さん、下総の筵《むしろ》芝居とはちと違いましょう?」
「人前で恥をかかすものじゃねえ。下総、下総と大きな声で言や、田舎もののお里が分るじゃねえかよ。それにしても梅甫さん、江戸ってところは、よくよく閑人《ひまじん》の多いところだね」
小芳を真中にして、幕のあくのを待ちながら、三人むつまじく話し合っているところを、
「ちょっとご免やす」
変なところを通る男があればあるものです、すぐそばに花道もあることだし、横には桝目《ますめ》の仕切り板もあることだから、わざわざ三人の真中を割って通らなくてもよさそうなのに、幇間風《たいこもちふう》の男が無遠慮にも小芳の肩を乗りこえて、ひょいと大きく跨ぎながら通り越しました。
咄嗟に首をまげてこちらは避けたが、向うは故意からか、それとも跨ぐはずみからか、その裾がひらりと舞うように小芳の結い立ての髪に触れて、見事に出した小鬢《こびん》をゆらりとくずしたからたまらない。――梅甫の声が咎めるように追いかけました。
「おいおい。ちょっとまてッ」
「へえへえ、毎度ありがとうござりやす」
「白っぱくれたこと言うな。大切な髪をこわして、毎度ありがとうござりやすとは何だよ。貴様、たいこだな」
「左様で。何かそそうを致しましたかい」
「これをみろ。この髪のこわれた奴が分らねえのかよ」
「なるほど。ちっとこわれましたね、しかし、こういう大入り繁昌の人込みなんだからね。こわれてわるい髪なら、兜《かぶと》でもやっていらっしゃることですよ」
「なに! 跨いで通るってことがそもそも間違っているんだ。詫[#「詫」は底本では「詑」と誤植]《あやま》りもしねえでその言い草は何だよ」
「何だ! 何だ!」
声と一緒に、そのときどやどやと立ち上がって、花道向うの鶉《うずら》から飛び出して来たのは、六人ばかりのいかつい大小腰にした木綿袴のひと組です。たいこもちとは同じ連れか、でなくば見知り越しらしい話工合でした。
「何じゃ。三平。こやつら何をしたのじゃ」
「いいえなに、このおめかしさんの髪へ触ったとか触らないとか言ってね。大層もないお叱りをうけましたんで、ちょっとわびを言ったら、そのわびの言い草が気に入らないというんですよ」
「文句を言ったは貴様等か!」
「何でござんす」
ひょいと見あげた梅甫の目と小芳の目とが、なにげなくうしろの鶉へ向けられると一緒に、
「あッ……」
小さなおどろきの叫びが先ず小芳の口からあげられました。見覚えのある顔!
いや、見覚えどころではない。小侍たち六人が飛び出して来たその鶉席に傲然《ごうぜん》と陣取って、嘲笑《あざわら》うようにこちらを見眺めていた顔こそは、小芳がまだ曲輪にいた頃、梅甫とたびたび張り合った腰本《こしもと》治右《じえ》衛門なのです。――元は卑《いや》しい黒鍬組《くろくわぐみ》の人足頭にすぎなかったが、娘が将軍家のお手かけ者となってこのかた、俄かに引き立てられて、今では禄も千石、城中へ出入りも自由のお小納戸頭取《こなんどとうどり》というすばらしい冥加者《みょうがもの》でした。
「あいつめが来ておるとすると――」
「企んで仕かけた事かも分りませぬ。兄さん!……」
小芳はさッと青ざめ、兄の方へ目まぜを送ると、小声で囁きました。
「何とかうまく扱っておくんなんし……」
「よしよし。惚れ合っていると兎角こんなことになるんだ。こっちへどきな」
小作りの下総男、田舎じみた風体をしているが、なかなか扱いが馴れたものです、腰低く小侍たちに一礼すると、人中で騒ぎを起して、近所迷惑になってはならぬと言うように、ひたすらわび入りました。
「こちらこそ飛んだ粗相、本当に三平さんとやらがおっしゃる通りです。髪なんどこわれようとつぶれようと、また結い直せば済みますこと、もう追っつけ幕もあくことでござんしょうから、いざこざなしにきれいさっぱり旦那方もお引きあげなすって下せえまし」
「いざこざなしとは何じゃ。こっちで売った喧嘩でない。うぬらがつけた因縁じゃ。わびを言うならそのように法をつけい」
「だから、立つ腹もこっちが納めて、この通り下手《したて》からおわびを申しているんでごぜえます」
「なにッ。下手からとは何じゃ! その言い草が面憎い! こっちへ出い!」
「笑《じょ》、笑談《じょうだん》じゃござんせぬ。ごらんの通りわたしどもは田舎ものばかり、この人前で手前ども風情《ふぜい》を恥ずかしめてみたとて、お旦那方のご自慢になるわけじゃござんせぬ。騒ぎ立てたら、みなさま
次へ
全9ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング