も迷惑、小屋も迷惑、この位でもう御勘弁下さいまし」
「お旦那方がご自慢とは何じゃ! きさま、見くびっておるなッ。たわけものめがッ。出い! 出い! ここへ出い! こうしてやるわ!」
 ピシャリ、と、理も非もない。初めから売る因縁、売る喧嘩だったと見えるのです。前後左右から木綿袴の小侍共がこぶしを固めて、小芳の兄の横びんをおそいました。
「喧嘩だッ。喧嘩だッ」
「出方はおらんか! おうい! 出方! 早く鎮めろッ」
 どッとわき立つ人の波! 騒ぎの中を、六人の木綿袴は、なおピシャリピシャリとおそいました。
 打たれるままにまかせていたが、なかなかに打ち打擲《ちょうちゃく》はやむ色がないのです。
 刹那! 下総男、すさまじい豹変《ひょうへん》でした。
「さんぴん、よさねえなッ」
 ダッと一躍、花道の上へ飛び上がると、パラリぬいだもろ肌いちめん、どくろ首の大|朱彫《しゅぼ》り!
「べらぼうめ! 下手に出りゃつけ上がりゃがって、下総十五郎を知らねえか! 不死身《ふじみ》の肌だッ。度胸をすえてかかって来やがれッ」
 彫りも見ごと、啖呵《たんか》も見事、背いちめんの野晒《のざら》し彫りに、ぶりぶりと筋肉の波を打たせて、ぐいと大きくあぐらを掻《か》きました。
 同時です。
 舞台の幕をやんわり揚げて、ぬうと静かにのぞいた顔がある。
「御前だ!」
「早乙女の御前だ!」
 まことやそれこそ、眉間の傷もなつかしい早乙女の退屈男でした。

       三

 観衆の目は、一斉に退屈男の姿へそそがれました。江戸|名代《なだい》の眉間傷がのぞいたからには、只ですむ筈はない。その眉間傷が今日はいちだんとよく光る。主水之介がまた実におちついているのです。
 揚げ幕からずいと出て、のそり、のそりと花道をやって来ると、猛《たけ》り狂っている黒鍬組小侍たちのうしろに、黙って立ちはだかりました。
 勿論下総十五郎の啖呵《たんか》は、大野ざらしの彫り物の中から、井水《いみず》のように凄じく噴きあげている最中なのです。
「べらぼうめ、見損った真似しやがるねえ! 江戸でこそ下総十五郎じゃ睨みが利かねえかも知れねえが、九十九里ガ浜へ行きゃ、松のてっぺんまで聞えた名めえだ。松魚《かつお》にしてもこんな生きのいい生き身はありゃしねえやい! 生かして帰《け》えせと言うんじゃねえんだ。のめすならのめす、斬るなら斬ってみろい!」
「な、な、何ッ」
「何を、何を大口叩くかッ。出、出、出ろッ」
「のめして貰いたくばのめしてもやるわ。斬ってもやるわッ。もそっとこっちへ出ろッ」
「べらぼうめ、出なくたって斬れらあ! 俎板《まないた》代りにちゃんと花道を背負っているんだ。斬ってみろ!」
「何ッ。な、な、何だと! もういっぺん言ってみろ!」
 劣らずに口では小侍たち、猛りつづけてはいたが、十五郎の思わざる豹変《ひょうへん》にいささか怖《お》じ気づいたらしい容子でした。真赤な髑髏《どくろ》首もこの際この場合、相当に六人の肝を冷やしていると見えるのです。――しかし、何を言うにも当人たちの腰には二本ある。背後にはまた、成上がり者ながら権勢に奢《おご》る腰本治右衛門がいるのです。そのうえに見物の目もある。手前もある。
「やれッ。やれッ。構わぬわッ、斬れ斬れッ」
「打《ぶ》ッた斬って吠え面《づら》掻《か》かしてやれッ」
 半分は脅すつもりもあったらしく、黒鞘の大刀《だいとう》を横にヒネってプツリ鯉口《こいぐち》切《き》ったところを、
「こりゃ下郎々々…」
 気味わるく静かにうしろから呼びかけて、のっそりと主水之介がその顔の真ん前へ立ちはだかると、あとは無言でした。黙ってにんめり打ち笑みながら、ぬうと向うの顔へこっちの顔をさしつけて、みい、みい、これを見い、というようにおのが指でおのが額の大看板を静かに指さしたものです。
 ぎょッとなってたじろいだところを、
「出口はあちらじゃ。行けッ」
「………」
「行かぬかッ。行かねば光るぞッ」
 睨んだ傷は江戸御免、しいんと見すくめたひと睨みに、たじ、たじとなりながら六人がさがりかけたのを見眺めて、怒気もろとも泳ぐように主水之介の前へ飛び出して来たのは腰本治右衛門でした。黒鍬者といえば土工です。千石の大身に成り上がっても、もとの素姓はなかなか洗い切れぬとみえて、言葉のところどころが巻舌がかってもつれました。
「誰に頼まれて要らざる真似をしやがるんじゃ。うぬは何者という野郎じゃ」
「その方、もぐりじゃな」
「なにッ。もぐりとは何じゃ! 怪しからぬことを申しやがって、もぐりとは何が何じゃ!」
「申しやがると申しおったのう。江戸に住まって、この眉間傷知らぬような奴は、もぐりじゃと申すのよ。その方も仲間ならば、出口はあちらじゃ。行けッ」
「た、たわけ申すなッ。鶉《うずら》ひと桝《ます》小判で買って参ったのじゃ。うぬのさし図うけんわい!」
「控えろッ。この小屋は喧嘩場でない。見物が迷惑するゆえ、表へ出いと言うのじゃ。参らねばこれなる眉間傷が今に鼠啼《ねずみな》きいたすぞッ。――行けい! 道が分らねば手伝うてやる! 早う行けい!」
 青白く光らして、柄頭《つかがしら》ぐいとこきあげながらその胸元へ突きつけると、もうどうしようもない。腕には諸羽流《もろはりゅう》の術がある。柄頭ながらそのひと突きは大身槍の穂尖《ほさき》にもまさるのです。腰本治右衛門の顔が盃んだかとみるまに、六人の小侍ともども、ぐいぐいと押されて木戸口から表へ消えました。
 わッと小屋の中は総立の大どよめき。
「兄さん! 兄さん! あれが早乙女の御前さまじゃ。お救い願えてようござりましたな。早う肌をお入れなんし……」
 打ちよろこびながら小芳が手伝って十五郎の肌をおさめさせたところへ、木戸からずいずい主水之介が戻って来ると、裁きに手落ちがない。
「その方たちも出い!」
「でも、あっしたちゃ――」
「売られた喧嘩であろうとも、出入りがあった上は両|成敗《せいばい》じゃ。何かと芝居の邪魔になる。早う出い!」
「なるほど、お裁き、よく分りました。ご尤もでござります――お見物のみなさま、飛んだお騒がせ致しまして相すみませぬ。下総十五郎、おわびいたしまする。小芳! 梅甫さん! 殿様のお裁きに手落ちはねえ。出ましょうよ」
 下総十五郎、背中の野ざらし彫りは伊達ではないとみえるのです。物分りよく立ち去ったあとから小屋のうちは、またひとしきりどッとどよめき立ちました。

       四

「御前。有難うござります! 申しようもござりませぬ。すんでのことに狂言が割れますところを有難うござります!」
 事もなげに舞台の奥へ引き揚げていった主水之介を見てとるや、楽屋姿のまま飛び出して、拝まんばかりに迎えたのは団十郎《なりたや》でした。
「何ともお礼の言いようがござりませぬ。御前なればこそ、怪我人も出ずに納まりましてござります。お礼の申しようもござんせぬ」
「そうでもないのよ。丸く納まったとすればこの眉間傷のお蔭じゃ。身共に礼は要らぬわい!」
「いいえ、左様ではござりませぬ。手前|風情《ふぜい》がご贔屓《ひいき》頂いておりますさえも身の冥加《みょうが》、そのうえ直き直きにあのようなお扱いを頂きましては空恐しゅうござります。甚だぶしつけでござりまするが――」
「何じゃい。退屈払いでもしてくれると申すか」
「致しまする段ではござりませぬ。日頃御贔屓に預りまするお礼方々、今宵深川へお供させて頂きとうござりまするが、いかがでござります」
「深川はどこじゃ。女子がおるか」
「御前は御名代《おなだい》の女ぎらい、――いいえ、おすきなようなお嫌いなような変ったお気性でござりますゆえ、手前にいささか趣向がござります。女子《おなご》もおると思えばおるような、いないと思えばいないようなところでござります」
 さすがは団十郎です。主水之介ほどの男を招くからには、何かあッと言わせるようなすばらしい思いつきがあるらしい口吻《くちぶり》でした。
「気に入った。その言い草が面白い。主水之介も嫌いなような好きなような顔をして参ろうぞ。早う舞台を勤めい」
「有難い倖《しあわ》せでござります。お退屈でござりましょうが、ハネるまでこの楽屋ででも御待ち下さりませ」
 その大切りのひと幕が終ったのは、街にチラリ、ホラリと夏の灯の涼しい夕まぐれでした。
「では、お約束の趣向に取りかかりますゆえ、少々お待ち下さりませ。――おい。誰か、若い者、若い者は誰かおりませぬか」
 番頭を呼び招くと団十郎は、何の趣向にとりかかろうというのか、小声でそっと命じました。
「さき程ちょっと耳打ちしておいたから来て下さる筈だ。上方《かみがた》の親方を呼んで来な」
「いいえ、お使いには及びませぬ。参りました」
 まるで声は女です。恥ずかしそうに身をくねらせながら、鬘下地《かつらしたぢ》の艶《えん》な姿を見せたのは、上方下りの立女形《たておやま》上村吉三郎でした。
「お初に……」
「おう。主水之介じゃ。世の中がちと退屈でのう。楽屋トンビをしておるのよ。舞台は言うがまでもないが、そうしておる姿もなかなかあでやかじゃのう」
「御前が、御笑談ばっかり……。江戸の親方さん、では、身支度に――」
「ああ、急いでね。早乙女のお殿様のお目の前で女に化《な》ってお見せ申すのも一興だから、一ツ腕によりをかけて頼みますよ」
「ようます」
 吉三郎の姿は、みるみるうちに女と変りました。しかも只の女ではない。持ち役そのままの傾城姿《けいせいすがた》、奥州に早変りしたのです。いや、その声は言うもさらなり、言葉までがすっかり吉原育ちの傾城言葉に変りました。
「ごぜん、どうざます。女子《おなご》に見えますかえ。およろしかったら、わちきに酌なとさせておくんなまし……」
「わはは、そうか、そうか、団十郎《なりたや》め、心憎い趣向をやりおった。女子《おなご》がおると思えばおるような、いないと思えばいないようなと申したはこのことか。いや、いないどころか立派な女子じゃわい。主水之介、苦労がしとうなった。どうじゃ、奥州、いっそ成田屋を撒《ま》いてどこぞでしっぽり濡れてみるか」
「お口さきばっかり……。では成田屋さん、お伴《とも》させて頂きんしょう」
 櫛《くし》、こうがい、裲襠《うちかけ》姿のままで吉三郎が真ん中、先を成田屋、うしろに主水之介がつづいて、木挽町《こびきちょう》の楽屋を出た三|挺《ちょう》の列《つら》ね駕籠は、ひたひたと深川を目ざしました。
 すだれ越しに街の灯がゆれて、大川端は、涼味肌に泌《し》みるようです……。
 さしかかったのが江戸名代の永代橋。
「あの、もうし、かご屋さん……」
 渡り切ると、不意に簾垂《すだ》れの中から、吉三郎の奥州が、もじもじしながら恥ずかしそうに呼びとめました。
「ちょっと、あの、かごを止めてくんなんし……」
「へえへえ。止めますがお気分でもわりいんですかい」
「いいえ、あの、わちき、――おししがやりたい……」
 主水之介の目が簾垂れの中で、思わずピカリと光りました。消え入るような声で恥じらわしげに、おししがやりたいと言ったその声は、何ともかとも言いがたくなまめかしかったからです。
 ――しかもその身のこなし!
 どう見てもそれは男ではない。
「ごぜん、ごめんなんし……」
 パッと赤くもみじを散らして、消えも入りたげに、恥じらい恥じらい、駕籠の向うの小蔭へいって身をこごませると、さながらに女そのままの風情で用を足しました。
 そのえも言いがたいなまめかしさ!……。
 その身だしなみの言いようなきゆかしさ!……。
「ああ、いい女形《おやま》だな……。名人芸だ」
 思わず団十郎《なりたや》が感に堪えかねたように、すだれの中から呟きました。
 主水之介もまた恍惚となって見とれました。
 そのまに駕籠は大川端を下って料亭へ。

       五

「いらっしゃいまし!……」
「あら! 成田屋さんじゃござんせんか。どうぞ! どうぞ! さあどうぞ……」
 行きつけのうちと見えて、下へも置かない歓待ぶ
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