りです。
 屋号は谷の家。
 川にのぞんだ座敷には、いく張りかの涼しげな夏提灯がつるされて、青い灯影《ほかげ》が川風にゆれながら流れ散って、ひとしおに涼しげでした。
「ま! 花魁《おいらん》も……」
「傷の御前も……」
 婢《おんな》たちは、目が高いと言っていいか、低いと言っていいか、主水之介をそれと看破《みやぶ》って成田屋、おいらん、二人が取巻きの川涼みと思ったらしく、忽ちそこへ見る目もさらに涼しい幾品かの酒肴《しゅこう》を運びました。
「おいらん、一|献《こん》汲むか」
「あい。お酌いたしんす……」
「のう、成田屋」
「はッ」
「は、とは返事がきびしいぞ。市川流の返事は舞台だけの売り物じゃ。もそっと二枚目の返事をせんと、奥州に振られるぞ。さきほどのおししは、十万石位のおししだったのう」
「あんなことを! 憎らしい御前ざます。覚えておいでなんし。そのようなてんごうお言いなんすなら――」
 くねりと身をくねらせて吉三郎の奥州が、やさしく主水之介を睨めながら、チクリと膝のあたりをつねりました。――こぼるるばかりの仇ッぽさ、退屈男上機嫌です。
「痛い! 痛い! おししが十万石なら、この痛さは百万石じゃ。――のう、成田屋。昼間の喧嘩《でいり》も女がもとらしいが、そち、あの女を見たか」
「いいえ、御本尊にはお目にかかりませぬが、番頭どもがきき出して参った話しによると、曲輪上りだそうでござります。玄人《くろうと》でいた頃、あの二人が張り合っていたそうでござりましてな、売ったお武家さまは、腰本治右衛門とかおっしゃるお歴々、売られたお方は湯島とやらの町絵師とかききました。ところがいぶかしいことにはその絵師の住いに、ときどきどろどろと――」
「出るか!」
「尾花のような幽霊とやらが折々出ると申すんですよ。それもおかしい、売った工合もおかしい、御前のお扱いをうけて、あの場はどうにか無事に納まりましたが、あとで何かまたやったんではないかと、番頭どもも心配しておりましてござります」
「のう」
「また喧嘩に花が咲きましたら、何をいうにも対手は七人、それにお武家、先ず十中八九――」
「どくろ首の入れ墨男が負けじゃと申すか」
「ではないかと思いまする。狂言の方ではえてして、あの類《たぐい》の勇み肌が勝つことに筋が仕組まれておりまするが、啖呵《たんか》では勝ちましても、本身の刄先が飛び出したとなりますると、筋書通りに参りますまいかと思いまする」
「いや、そうでない。喧嘩とても胆《きも》のものじゃ。抜身の二本三本あの度胸ならへし折ろうわい」
「いいえ、やられましてござります……」
 そのとき不意でした。突然、不気味に言った声と一緒に、するするとうしろの襖が開くと、降って湧いたかのように、そこへ姿を見せた男がある。血達磨《ちだるま》のように全身|朱《あけ》に染って、喘《あえ》ぎながら手をついているのです。
「ま! 怕い!……」
 すがりついた吉三郎の奥州を抱きかかえながら、ギョッとなって主水之介も目を瞠《みは》りました。
「おう! そちは!」
 同時におどろきの声がはぜました。
 誰あろう、十五郎なのです、血に包まれたその男こそは、今噂をしたばかりの下総十五郎だったのです。

       六

 血を見て、傷を見て、いたずらにうろたえるような退屈男ではない。主水之介は、しんしんと目を光らして、十五郎の先ず傷個所を見しらべました。
 右腕に二カ所、左肩に一カ所、腰に一カ所、小鬢《こびん》に一カ所、背の方にもあるらしいが、目に見えるは以上の五カ所です。
 しかし血は惨《むご》たらしい程に噴いていても、傷は皆浅い。
「女! 焼酎を一升ほど持って参れ。なにはともかく手当をしてやろう。襦袢《じゅばん》でも肌衣でもよい、巻き巾になりそうなものを沢山持って参れ」
 諸事無駄もなく、また手馴れたことでした。
 団十郎も手を貸し、吉三郎のおいらんも片袖をくわえて甲斐々々しく手伝い、血止めの手当が出来てしまうと、下総十五郎がまたすばらしく精悍《せいかん》なのです。
「焼酎がヒリヒリと泌みていい心持がいたしやす。ぶしつけでござんすが、景気づけに一杯呑ましておくんなさいまし」
 激痛をこらえて、歪んだように笑うと、なみなみ注いだ大盃をギュウと一気に呑みほしながら、ぶるぶると身ぶるいを立てました。
 主水之介の声が泳ぎ出しました。
「小気味のよい男じゃのう。対手はさっきのあれか」
「そうでござんす。喧嘩両成敗じゃ、おまえらも小屋を出ろと、殿様がお裁きなすったんで、御言葉通り出るは出たんですが、出れば刄物|三昧《ざんまい》になるは知れ切ったこと、――ええ、ままよ、おれも下総十五郎だ、江戸で膾斬《なますき》りになってみるのも、地獄へいってからの話の種だと、男らしく斬られる覚悟をしたんですが、妹という足手まといがござんす。どうにかして女たちふたりを逃がさなくちゃならねえ、しかし、逃がすにはあの通りの真ッ昼間、日の暮れるまで待とうとお茶屋で待って、こっそりふたりを裏から駕籠で落してから、あっしひとりでいのちを張りにいったんでござんす」
「喧嘩の花はどこで咲いた」
「小屋を出ると、案の定黒鍬組の奴等が、今出るか今出るかと待っていやがったとみえて、来いというからあの前の河岸《かし》ッぷちへいったんでござんす。抜いたのは手下のあの六人でした。さすがに腰本治右衛門だけや抜かなかったところが親分でござんす」
「得物《えもの》もあるまいに、よくそれだけの傷で済んだものじゃのう。どうしてまたその姿でここへ参った」
「そのことでござんす。こっちは只の素人《しろうと》、向うはともかくも二本差《りゃんこ》が六匹、無手の素町人が六人の侍を対手にして斬り殺されたと世間に知れたら、下総十五郎褒め者になっても死に恥じは掻くめえと、いのちを棄てる覚悟でござんしたが、斬られているうちに、ふいッと妹たちふたりのことを思い出したんでござんす。喧嘩のもとというのは妹のあの小芳、死ぬあっしゃいいが、あとで黒鍬組の奴等がきっと何かあのふたりにあくどい真似をするだろうと思いつきましたんで、こいつうっかり死なれねえ、死ぬにゃどなたかに妹たちふたりの身の上を頼んでからと、御迷惑なことですが、ふと気のついたのはお殿様のことでござんした。男が気ッ腑を張ってお頼み申したら、お眉間傷にかけても御いやとはおっしゃるまいと、地獄の一丁目から急に逃げ出して、楽屋の中へ駈け込んだんでござんす。ところが、お殿様たちはこっちへもうひと足違い――成田屋さんのお弟子さんでござんしょう、大層もなく御親切なお方がひとりおいでなすってな、行った先は深川《たつみ》の谷の家だ、気付けをあげます、駕籠も雇うてあげます、すぐにおいでなさいましと、いろいろ涙のこぼれるような御介抱をして下さいましたんで、こんな血まみれの姿のまますぐ、おあとをお慕い申して来たんでござんす」
「ほほう、そうか。では主水之介にそちの気ッ腑を買えと申すんじゃな」
「十五郎、無駄は申しませぬ。あっしの気ッ腑はともかく、妹たちは惚れ合った同士、不憫《ふびん》と思召しでござりましたら、うしろ楯となってやって下さいまし……」
「嫌と申したら?」
「………」
「人の喧嘩じゃ、身共の知ったことではない、嫌じゃ勝手にせいと申したら何とする?」
「………」
「どうする了簡《りょうけん》じゃ」
「いたし方がござんせぬ」
 さみしそうな声でした。あの気性なら、この気性を買って下さるだろうと思ったのに、当てがはずれたか! ――口では言わなかったが、十五郎は急にこの世がさみしくなったとみえるのです。全身これ精悍と思われた男が、しょんぼり立ち上がると、生血にもつれたおどろ髪を川風にそよがせながら、しょんぼりと出て行きました。
「まてッ」
 刹那でした。ひとたび命を張れば豹虎《ひょうこ》のごとく、ひとたび悲しめば枯れ葉のごとくに打ち沈んで行くその生一本の気性が、こよなくも主水之介の胸を衝《う》ったのです。
「眉間傷貸してやる! 妹の住いはいずれじゃ」
「え! じゃ、あの!……」
「眉間傷に暑気払いさせてやろうわい。小芳とやらの住いはいずれじゃ」
「十五郎、うれしくて声も出ませぬ。神田の明神裏の篠原梅甫というのが配《つ》れ合いでござんす。手前、ご案内いたします……」
「無用じゃ。その怪我ほってもおかれまい。そちはどこぞへ隠れて傷養生せい。成田屋、その方も江戸ッ児じゃ。下総男にひと肌ぬがぬか」
「よろしゅうござります。医者のこと、隠れ家のこと、一切お引きうけいたしましょう。たんと眉間傷を啼かしておいでなさいまし」
「味を言うのう。吉三郎のおいらん、浮気するでないぞ」
「あんなことを……。ぬしさんこそ、小芳さんとやらに岡惚れしんすなえ」
「腰本黒鍬左衛門とはちと手筋が違うわい。アハハ……。世の中にはまだ退屈払いがたんとあるのう。女共、気まぐれ主水之介、罷《まか》り帰るぞ。乗物仕立てい」
 眉間傷の出馬となると、主水之介の声までが冴えるのです。――ゆらゆらゆれて行く駕籠の右と左りに、江戸の夏の灯の海が涯なくつづきました。

       七

 鐘が鳴る……。
 そんなにふけたわけではないが、明神裏というと元々宵の口から、街の底のようなさみしい街なのです。
「これか。惚れた同士の恋の巣は、どこかやっぱり洒落《しゃれ》ておるのう。駕籠屋ども、すき見するでない。早う行け」
 灯影一ツ洩れない暗い玄関先へ、主水之介はずかずかと這入りました。
 右手の寒竹の繁みが、ザアッと鳴った。
 生き埋めの井戸の上のあの繁みなのです。
 しかし、何も出たわけではない。黒い影も白い影も何の影もない。
 うちの中もしいんと静まり返っているのです。
 仔細にのぞいてみると、奥の座敷あたりに灯の影がある。
 退屈男はどんどんと上がりました。
 梅甫と小芳とがその灯の蔭で抱き合って、びっくりしながら、青ざめつ、目をみはりつつ、ふるえているのです。
「どうした!」
「………?」
「何をふるえているのじゃ。昼間小屋で会うた主水之介ぞよ。どうしたのじゃ」
「あの、ほ、ほんとに、傷《きず》のお殿様でござりますか!」
「おかしなことを申すのう、主水之介はふたりない。兄が駈けこんで来たゆえ参ったのじゃ。何を怕《こわ》がっているぞよ」
「兄!……。あの、十五郎がいったんでござりまするか!」
「そうよ。ほんの今深川まで血を浴びて身共を追っかけて来たゆえ、眉間傷の供養にやって来たのじゃ。何をそのようにびっくりしているのじゃ」
「いいえ! そ、そんな馬鹿なことはありませぬ! ある筈がござりませぬ!」
 真ッ青になると、梅甫が突然実に意外なことを言ってふるえ出しました。
「あ、兄が、十、十五郎が、深川なぞへ行かれる筈がござりませぬ。兄はほんの今しがた血を浴びて、ふわふわとここへ来たばかりでござります」
「なに!」
「うそではござりませぬ。それも二度、つい今しがたふわふわとその庭先へ来たばかりなんです。髪をみだして、血を浴びて、しょんぼりとそこの暗い庭先へ立って、にらめつけておりましたんで、どうしたんですとおどろいて声をかけたら、俺は喧嘩で斬られて死んだ、気になることが一ツあって行かれるところへも行かれないから、小芳に言いに来たんだ。この屋敷には生き埋めの井戸があってよくない、住んだのが因果だ、祟《たた》りがあるから夫婦別れをしろ、別れないと兄は恨むぞ、斬られたのもみんなおまえらのせいだ、兄が可哀そうなら今別れろ、別れないと何度でも迷って来てやるから、と二度が二度うらめしそうに言って、ふわふわと庭の向うの闇の中へ消えましたんで、ふたりがこの通りふるえていたところなんです……」
 不思議きわまる言葉でした。
 下総十五郎にふたりある筈はない。深川へ来た十五郎が嘘の十五郎か、こっちへ現れた十五郎が本当の十五郎か、どっちかの十五郎が怪しむべき十五郎なのです。
 主水之介の目がキラリと光りました。
「まだ出ると申したか」
「今別れろ、別れると約束するまでは何度でも迷って来るぞと、気
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