味のわるいことを言いのこして、ふわふわと消えていったんでござんす」
言うか言わないかに、ふわりと薄暗い庭先へ浮いた影がある。
血を浴びたおどろ髪の十五郎なのです。
刹那。
「あッ」
と言ってその十五郎がおどろいたのと、
「まてッ」
叫んで主水之介が庭へ飛びおりたのと同時でした。
逃げ走る影をみると、同じ姿の同じ血を浴びた十五郎がふたりいるのです。
「たわけッ。化けたかッ」
声と一緒に泳いで五尺、主水之介の手が手馴れの一刀にかかったと見るまに、見事な一斬り、五千両が程の涼しさでした。すういと薙《な》いでおいて、逃げのびようとしていた今ひとりの十五郎へ躍りかかると、
「面体みせい!」
襟首押えて引きすえた下から、声がもうふるえているのです。
「相すみませぬ。十、十五郎ではござりませぬ。お見のがし願わしゅうござります。手、手前でござります」
「控えろッ。どこの手前かその手前を見るのじゃ。梅甫、灯《あか》りを持てい!」
灯りをさしつけて見しらべると、傷なぞある筈はない。血は塗《ぬ》った血、おろか千万なこのつくり十五郎は、まぎれもなく昼間|森田座《こびきちょう》で見かけたあの黒鍬組の小侍のひとりなのです。
「たわけがッ。傷の早乙女主水之介を何と心得おるぞ。腰本治右の差図か!」
「そ、そ、そうなんでござります。おまえらふたり、十五郎に化けて、かようかように梅甫夫婦を脅《おど》して来いと言われましたゆえ、迷って出たのじゃ、今すぐ別れろと、うまうまひと狂言書いたのでござります」
「夜な夜な玄関先の寒竹の繁みの中とやらへも、白い影が出るとか申したが、それもおまえらの仕業《しわざ》か」
「相済みませぬ。あそこの生き埋めの井戸というのがあるのを幸い、脅しつけろ、と腰本様がおっしゃりましたゆえ、変化《へんげ》の真似をしたのでござります……」
「たわけものめがッ。その方共も黒鍬組のはしくれであろう。下賤者ではあろうとも黒鍬組はとにもかくにも御直参の御家人じゃ。他愛もない幽霊の真似なぞするとは何のことかッ。腰本治右に申すことがある。少し痛いが待て。――梅甫、料紙《りょうし》をこれへ持参せい」
足で踏んまえながら、さし出した筆と紙を手にとると、主水之介はさらさらと書きしたためました。
「早乙女主水之介、傷供養に喧嘩を買った。いつでも退屈払いに参ってつかわす。汝、お手かけ馬の権を藉《か》りて挑《いど》み参らば、主水之介、眉間傷の威を以って応対いたそう。参れ」
くるくると巻いてその果し状を小柄《こづか》へ結《ゆわ》いつけると、
「少し痛いぞ。天罰じゃ。我慢せい」
プツリと背中の肉を抉《えぐ》って小柄を縫いとおしました。
ひいひいと身をよじって悲鳴をあげた小侍を、どんと蹴起しながら小気味よげに言い放ちました。
「十五郎はもっと痛い目に会うているわッ、たわけものめがッ。いのちがあるだけ倖《しあわ》せじゃ。早う飛んで帰って腰本治右にしかじかかくかくとあることないこと搗《つ》きまぜて申し伝えい。アッハハ。……ずんと涼しゅうなった。梅甫夫婦また来てやるぞ。売られた喧嘩でも喧嘩のあとはまた、しっぽりとしていいもんじゃ。たんと楽しめ」
ぽたぽたと血を撒きながら、飛んでいった小侍のあとから、退屈男の颯爽とした姿がゆらりゆらりと涼しげに街の灯の中へ遠のきました。
八
「アッハハ……。罷り帰ったぞ。兄は機嫌がよいぞ」
いとも機嫌よく帰っていったところは、妹菊路と小姓京弥と、あでやかなお人形たちが待っていたおのが屋敷です。
待っていたというものの、この美しく憎らしやかな人形たちは、兄主水之介のいない方がいいとみえて、なんということもなく戯《たわ》むれに戯《たわ》むれていた手をパッと放すと、ふたりとも真赤になって迎えました。
「おかえり遊ばしませ……」
「何じゃい。気の抜けたころおかえり遊ばせもないもんじゃ。煮て喰うぞ。アッハハハ。兄が留守してうれしかったか」
「ああいうことばっかり……。ご機嫌でござりますのな」
「機嫌がようてはわるいかよ」
「またあんなことばっかり……。どこへお越しでござりました」
「あっちへいってのう」
「どこのあっちでござります」
「鼻の先の向いたあっちよ」
「またあんなことばっかり……。わたし、もう知りませぬ」
「わたしもう知りませぬ。わッははは。怒ったのう。おいちゃいちゃの巴御前《ともえごぜん》、兄が留守したとても、あんまり京弥とおいちゃいちゃをしてはいかんぞよ。兄はすばらしい恋の鞘当《さやあて》買うてのう。久方ぶりで眉間傷が大啼きしそうゆえ上機嫌じゃ。先ず早ければあすの朝、お膳立てに手間をとれば夕方あたり、――果報は寝て待てじゃ。床取れい」
心待ちしながら上機嫌でその朝を迎えたのに、しかし腰本治右衛門からは、何の音沙汰もないのです。
夕方までには、何か仕かけて来るだろうと待っていたが、やはりないのでした。
二日経っても来ない。
三日経っても来ない。
「腰本|治右《じえ》は意気地がのうても、娘は将軍家の息がかかっておるという話じゃからのう、おてかけ馬に乗って来そうなものじゃが――」
「何でござります。お将軍さまのお息がかかるというのは何のことでござります」
「おまえと京弥みたいなものよ」
「菊路はそんな、京弥さまに息なぞかけたことござりませぬ」
「アハハ。かけたことがなければ急いでかけいでもいい。このうえ見せつけられたら、兄は焼け死ぬでのう。あすは来るやも知れぬ。来たら分るゆえまてまて」
しかし、四日が来たのにやはり何の沙汰もないのです。
五日が経《た》ったがやはりない。
こっちへは何の挑戦がなくとも湯島の方へ何か仕掛けたら、梅甫から急の使いでも来そうなのに、それすらもないのです。
いぶかしみつつ六日目の夕方を迎えたとき、京弥が色めき立って手をつきました。
「来たか!」
「はッ」
「何人じゃ」
「ひとりでござります」
「なに、ひとり?」
「このようなもの持参いたしました」
「みせい!」
さし出したのは、すばらしくも贅沢《ぜいたく》きわまる文筥《ふばこ》なのです。
しかし、中の書状に見える文字《もんじ》は、またすばらしくもまずい金釘流なのでした。
「てまえごときもの、とうてい、お対手は出来申さず候。ついてはおわび旁々《かたがた》、おちかづきのしるしに、粗酒一|献《こん》さしあげたく候間、拙邸《せってい》までおこし下さらば腰本治右衛門、ありがたきしあわせと存じ奉りあげ候」
粗酒一献とあるのです。
拙邸ともある。
「わッははは。黒鍬組の親方、漢語を使いおるのう。拙邸と申しおるぞ。使いはいずれじゃ」
「お玄関に御返事お待ち申しておりまする」
「今行くと伝えい! 乗り物じゃ。すぐ支度させい!」
「御前、おひとりで?」
「そうだ。わるいか」
「でも、もし何ぞよからぬ企らみでもござりましたら――」
「企らみがあったら、ピカリと光るわ。江戸御免の眉間傷|対手《あいて》に治右《じえ》ごとき何するものぞよ。あとで菊路とおいちゃいちゃ遊ばしませい。わッははは。六日待たすとはしびれを切らしおった。いつ罷りかえるか分らぬぞ」
乗って本所長割下水を出かけたのが日暮れどき。
番町の治右衛門邸へ乗りつけたのが、かれこれもう初更《しょこう》近い刻限でした。
成上がり者ながら、とにもかくにも千石という大禄を喰《は》んでいるのです。役がまたお小納戸頭《おなんどがしら》という袖の下勝手次第、収賄《しゅうわい》御免の儲け役であるだけに、何から何までがこれみよがしの贅沢ぶりでした。
「早乙女の御前様、御入来にござります」
「これはこれは、ようこそ。さあどうぞ。御案内仕りまする。さあ、どうぞ」
ずらずらと配下の小侍が三四名飛び出すと、下へもおかぬ歓待ぶりが気に入らないのです。
導いていった座敷というのも油断がならぬ。
酒がある。
燭台《しょくだい》がある。
ずらずらと広間の左右に八九名の者が居並んで、正面にどっかと治右が陣取り、主水之介の姿をみるや否や座をすべって、気味のわるい程にもいんぎんに手をつきつつ迎えました。
「ようこそお越し下さりました。酒肴《しゅこう》の用意この通りととのいおりまする。どうぞこちらへ……」
どんな酒肴か、槍肴《やりざかな》、白刄肴《しらはざかな》、けっこうとばかり退屈男はのっしのっしと這入って行くと、座敷の真中にぬうと立ちはだかりました。
九
その夜ふけ……。
丑満近《うしみつちか》い本所あたりは、死の国のような静けさでした。
もうおかえりか、もう御戻りの頃であろうと、寝もやらず兄の帰りを待ったが、しかし主水之介は、番町の腰本治右屋敷へ乗り込んでいったきり、待てど暮せど一向に帰る気色《けしき》もないのです。
るすを守る京弥と菊路のふたりは、当然のごとくに不安がつのりました。
「ちとおそうござりますのな。どうしたのでござりましょう。大丈夫かしら?」
「………」
「なぜお黙りでござります! 菊がこんなに心配しておりますものを、あなたさまは何ともござりませぬのか。もう他人ではない筈、いいえ、菊の兄ならあなたさまにもお兄上の筈、一緒に心配してくれたらいいではありませぬか」
「心配すればこそ、京弥もこうして、さきほどからいろいろと考えているのでござりまするよ」
「あんなことを! 心配していたら、御返事ぐらいしたとていいではありませぬか。憎らしい……。このごろのあなたさまは何だかわたくしにつれなくなりましたのな。そのような薄情のお方は――」
「イタイ! イタイ! なにをなさります! そんなところを抓《つね》ってなぞして痛いではありませぬか!」
「いいえ、つねります! 抓ります! もっとつねります!……」
同じ心配をするにしても、このふたりの心配振りは諸事穏やかでない。
だが、肝腎の主水之介は、いつまで経っても帰らないのです。
しらじらとして、ついに夜があけかかりました。
しかし、沓《よう》として消息はない。
「どうしたのでござりましょうな。いかなお兄上さまでも、少しおかえりがおそうござります。それにお招きなさった方は、素姓《すじょう》が素姓、わたくし何だか胸《むな》騒ぎがしてなりませぬ」
「ゆうべ届いた腰本の書面はどこにござります? ちょっとお貸しなされませい」
読み直してみたが、しかしそれには、てまえごときもの、とうていお対手は出来申さず候、おちかづきのしるしに粗酒一|献《こん》さしあげたく、拙邸までお越し下さらば云々と書いてあるばかりなのです。
何でもないと思えば何でもない。
何か企らみがあると思えば思えないこともない。
突然、京弥のおもてに、さッと血の色がのぼりました。
「お支度なさりませ!」
「いってくれまするか!」
「ぼんやり待っておりましたとて、心配がつのるばかりでござります。何ぞ容易ならぬこと、起きているやも計られませぬ。お伴仕ります!」
緋じりめん鹿ノ子絞りの目ざめるような扱帯《しごき》キリキリと締め直して、懐剣《かいけん》甲斐々々しく乳房の奥にかくした菊路を随えながら、ふたりの姿は朝あけの本所をいち路番町に急ぎました。
陽があがって間もないのに、江戸の六月は朝まだきから蒸し風呂のなかに這入ったような暑さです。
「あれじゃ、あれじゃ。あの大きな屋敷がそうでござります」
「どのようなことがあっても、狼狽《うろた》えてはなりませぬぞ。京弥が抜くまでは抜いてはなりませぬぞ」
うしろに菊路を庇《かば》って、油断なく門前へ近づきました。
だが、屋敷のうちはしいんと静まり返って、ことりとの音もない。
八文字にひらかれた門から大玄関まで、打ち水さえもが打ってあって、血の嵐、争闘、殺陣は元よりのこと、騒ぎらしい騒ぎがあったらしい跡もなく、不気味なほどに静まり返っているのです。
しかしそれだけに京弥たちふたりは、一層不安がつのりました。
この静まり方は尋常な静まり方ではない。とうにもう主水之介を陥《おと》し入れて、あ
前へ
次へ
全9ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング