と片附けまでが済んだようにも思えるのです。
京弥の目はいつのまにかほのぼのとして美しい殺気に彩《いろ》どられました。
「頼もう! 頼もう!」
「………」
「急用で参ったものじゃ。取次の者はおいで召さらぬか。頼もう! 頼もう!」
二度目の声でようやくに小侍《こざむらい》がそこへ手を突いたのを見迎えると、京弥は殺気におどる声であびせました。
「侮《あなど》ったことを申すと、手は見せませぬぞ! 早乙女の屋敷から参った者じゃ。御前はいずれでござる!」
「ああ、なるほど。お暑いところをようこそ。少々お待ち下されませ」
奥へ消えていったかと思うまもなく、再び姿をみせて手をつくと、言葉までが実に気味のわるいほどいんぎん鄭重《ていちょう》なのです。
「主人は火急の御用向にて只今御登城中にござりまするが、お出かけぎわにお言いのこしなされたとのことでござりました。早乙女家の方々が御前をお迎いに参られるやも知れぬ。参られたならばねんごろに御案内申せとの御伝言でござりますゆえ、手前これより御案内申しまするでござります。御遠慮なくどうぞあれへ――」
指さしたのは駕籠である。
それも只の乗物ではない。二挺ともにためぬり、定紋《じょうもん》入りの屋敷駕籠なのでした。
「まだ計るつもりか!」
「計るとは?」
「御前もこの手でたばかったであろう! われら二人も計るつもりか!」
「滅相もござりませぬ。あの通り陸尺《ろくしゃく》どもは只の下郎、御案内いたすものはこの手前ひとり、計るなぞとそのような悪企み毛頭ござりませぬ。早乙女の御前は少々他言を憚《はばか》るところに至って御満悦の体にてお越しにござりますゆえ、そこまで御案内を申上げるのでございます。どうぞお疑いなくお乗り下されませ」
「よしッ。乗ってやろう。菊どの、御油断あってはなりませぬぞ」
「あなたさまも!」
乗るのを待って駕籠は、小侍を道案内に立てながら、しずしずと歩き出しました。
一〇
土手沿いに午込御門へ出て、そこから濠ばた沿いに右へ道をとり、水戸邸の手前からさらに左へ折れて、どうやら駕籠は伝通院を目ざしているらしいのです。
目ざしているところも不思議だが、今か今かと油断なく駕籠の中から左右へ目を光らしていたのに、出る気色《けしき》もない。
やがて乗りつけたところは、やはり伝通院でした。開基《かいき》は了誉上人《りょうよしょうにん》、始祖《しそ》家康《いえやす》の生母がここに葬られているために、寺領六百石を領して、開山堂、弁財天祠《べんざいてんし》、外久蔵主稲荷《たくぞうぬしいなり》、常念仏堂《じょうねんぶつどう》、経堂《きょうどう》、無縁塚《むえんづか》坊舎《ぼうしゃ》が三カ寺、所北寮《しょけのりょう》が百軒、浄土宗《じょうどしゅう》関東十八|檀林中《だんりんちゅう》の随一を誇るだけあって、広大壮麗言うばかりない大伽藍《だいがらん》です。
「ここからはお乗物さし止めでござりますゆえ、お拾いにてどうぞ。手前御案内いたしまするでござります」
山門のまえで乗物をとめさせて、心得顔に小侍はさきに立ちながら、しんしんと静かな境内の中へ這入りました。
場所が寺です。
墓のあるお寺なのです。
もしやもうお墓に!……。
「まてッ!」
京弥は抑え切れぬ胸騒ぎを覚えて、するどく呼びとめました。
「われら、御前のむくろや新墓検分《にいばかけんぶん》に参ったのではない。不埓《ふらち》な振舞いいたすと容赦はせぬぞ!」
「どうぞお静かに。ご案内せいとの主人言いつけでござりますゆえ、手前は只御案内するだけでござります……」
しいんとした声で言って、取り合おうともせずに小侍は本堂わきから裏へ廻ると、一杯の墓だ。
ハッとなったとき、だが、導き入れたところはそこではない。墓の中を通り越して、そこの柴折戸《しおりど》をしずかにあけると、目で笑いながら立っているのです。
「ここにおいでか!」
「さようでござります。伝通院自慢の裏書院でござります。今もまだたしかにおいでの筈、手前の役目はこれで終りました。どうぞごゆっくり……」
言いすてかとみるまに、もう一二間向うでした。
躊躇《ちゅうちょ》はない。京弥は脇差し、菊路は懐剣、にぎりしめながら高縁におどりあがって、ガラリと左右からぬり骨障子をあけた刹那、――あッとおどろいてふたりは棒立ちになりました。書院というは名ばかり、几帳《きちょう》、簾垂《すだ》れ、脇息《きょうそく》、褥《しとね》、目にうつるほどのものはみな忍びの茶屋のかくれ部屋と言ったなまめかしさなのです。
しかも、その几帳のわきには女がいるのです。年の頃二十二三。青ざおとした落し眉に、妖《あや》しき色香がこぼれんばかりにあふれ散って、肉はふくらみ、目はとろみ、だが只の女ではない。姿、容子、化粧《つくり》の奢《おご》り、身分のあるもののおてかけか寵姫《おもいもの》か、およそ容易ならぬ女でした。
その女の膝へまた主水之介が何と穏やかならぬことか、江戸にゆかりの眉間傷を軽くのせて、この世の極楽ここにありと言いたげに、悠々と膝枕の夢を結んでいるのでした。のみならず不思議なのはその女です。さぞやおどろくだろうと思いのほかに、気色《けしき》ばんでふたりが闖入《ちんにゅう》したのを見眺めると、ことさらに主水之介の首のあたりを抱きすくめながら、恋をえたことを見せびらかそうとでもするかのように、淫花《いんか》のごとく嫣然《えんぜん》と笑いました。
京弥は言うまでもないこと、妹菊路のろうばいはいたいたしい位でした。女遊び、曲輪通い、折々の退屈払いに兄主水之介がこの世の女どもとかりそめのたわむれはすることがあっても、こんなのは、寺の裏書院のかくれ部屋で素姓《すじょう》も計りがたい女と、かような目にあまる所業は今が初めてなのです。
菊路の美しい柳眉《りゅうび》は知らぬまに逆立ちしました。
「何ごとでござります! お兄上!」
「………」
「この有様は何のことでござります! お兄上!」
「御案じ申してはるばると御迎いに参ったのではござりませぬか! このはしたないお姿は何のことでござります!」
声に膝枕したまま薄目をあけて、物うげに見眺めていたが、こんな兄というものはまたとない。
「よう。お人形さまたち、いちゃいちゃとやって来おったのう。アハハハ……。膝枕五千石という奴じゃ。後学のためにようみい。男女陰陽《なんにょおんよう》の道にもとづいてたわむれするはこうするものぞよ。どうじゃ、妬《や》き加減は? アッハハハ。では、罷りかえるかのう。……」
飄々《ひょうひょう》として立ち上がると、けろりとしているのです。
「いかい御馳走さまで御座った。御縁があらばまたお膝をお借り申したい。これにて御免仕る。両人かえるぞ。参れ」
すうと出て行きました。
一一
不審《ふしん》なのは女の素姓です。
京弥と菊路の目と顔が探るように左右からつめよりました。
「あれなる女はいったい何ものでござります」
「ききたいか」
「ききたければこそお尋ねするのでござります。どこの女狐《めぎつね》でござります」
「女狐なぞと申すと口が腫《は》れるぞ。あれこそはまさしく――」
「何者でござります」
「腰本治右の娘、将軍家御愛妾お紋の方よ」
「えッ! ……。ほ、ほ、ほんとうでござりまするか!」
「懸値《かけね》はない。びっくりいたしたか。なかなかの美人じゃ。別して膝の肉づきは格別じゃったのう」
格別どころの段ではない。将軍家御愛妾の膝に枕したとあっては、いかに主水之介、江戸に名代の傷の御前であろうとも、事が只ですむ筈はないのです。
京弥のおもても菊路の顔も血のいろを失いました。
「飛んだことになりましたな。もしもこの一条が上様お耳に這入りましたら何となされます!」
「何としようもない、先ず切腹よ」
「それ知ってかようなおたわむれ遊ばしましたか!」
「当り前よ。右膝は将軍家、左り膝は主水之介、恋には上下がのうてのう。美人の膝国を傾けるという位じゃ。切腹ですむなら先ず安いものよ。寄るぞ。寄るぞ。心配いたすと折角の顔に皺《しわ》がよる。そちたちも膝枕の工合、とくと見物した筈じゃ。やりたくば屋敷へかえって稽古せい」
「なにを笑談仰せでござります! いつものお対手とは対手が違いまするぞ! かりにも将軍家、もしもの事がありましたならば――」
「………」
「御前!」
「………」
「お兄様!」
「………」
「殿!」
いち途《ず》の不安に京弥たちふたりはおろおろして左右からつめよったが、しかし主水之介はもう高枕です。屋敷へかえりつくと、ゆうべの膝枕を楽しみでもするかのようにそのまま横になって、かろやかな鼾《いびき》すらも立て初めました。
「飛んだことになりましたな……。さき程番町の屋敷へ訪れたときの容子、案内《あない》していきましたときの容子、お紋の方様が治右衛門めの娘とあっては、まさしく腰本が仕組んだ企らみに相違ござりませぬ。主人は只今火急の用向にて登城中と申したが気がかり、今になにか御城中から恐ろしいお使者が参るに相違ござりませぬぞ」
「な! ……。それにしてはお兄様の憎らしいこのお姿。こんなに御案じ申しあげておりますのに、すやすやとお休み遊ばして何のことでござりましょう。もし、お兄様!」
「………」
「お兄様!」
起きる気色もない。ことさらに落ちついているあたり、今に訪れるに違いない禍いのその使者を待ちうけているかのようにも見えるのです。
だが、不思議でした。
もう来るかもう来るかと、菊路たちふたりはおびえつづけていたのに、城中はおろか、どこからも使者らしい使者は来る気勢《けはい》もないのでした。
水の里本所は水に陽が沈んで、やがて訪れたのは夕ぐれです。高枕したまま起きようともしない主水之介の居間にもその夕やみが忍びよったとき、突然、玄関先で憚《はば》るように訪《おと》のうた声がある。
ハッとなって京弥が出ていったと思うまもなく、青ざめて帰って来ると主水之介をゆり起しました。
「御前! 御前! ……。参りましたぞ!」
「来たか」
「来たかではござりませぬ。大目付様、おしのびで参りましたぞ」
「大目付にも多勢《おおぜい》ある。誰じゃ」
「溝口豊後守様《みぞぐちぶんごのかみさま》でござります」
「ほほう、豊後とのう。智恵者が参ったな」
主水之介はようやくに起き上がりました。――大目付は芙蓉《ふよう》の間詰、禄は三千石、相役四人ともに旗本ばかりで、時には老中の耳目となり、時にはまた、将軍家の耳目となり、大名旗本の行状素行《ぎょうじょうそこう》にわたる事から、公儀お政治向き百般の事に目を光らす目付見張りの監察《かんさつ》の役目でした。その四人の中でも溝口豊後守と言えば、世にきこえた智恵者なのです。
「ここへ通せ」
さすがにひと膝退って主水之介は下座。上座に直した褥《しとね》のうえに導かれて来たのは、目の底に静かな光りの見える微行《しのび》姿の豊後守でした。
「ようこそ……」
目礼とともに見迎えた主水之介のその目の前へ、黙って豊後守はいきなり脇差しをつきつけると、声が静かです。
「これをお貸し申そう。早乙女主水之介の最期を飾らっしゃい」
「アハハ……。なるほど、ゆうべの膝枕の借財をお取り立てに参られましたか。なかなかよい膝で御座った。まさにひと膝五千石、切腹せいとの謎で御座るかな」
「その口が憎い。ひと膝五千石とは何ごとでござる。江戸八百万石、お上が御寵愛のお膝じゃ。言うも恐れ多い不義密通、上のお耳にもお這入りで御座るぞ。表沙汰とならばお身は申すに及はず、お紋の方のお名にもかかわろうと思うて、溝口豊後、かく密々に自刄《じじん》すすめに参ったのじゃ。わるうは計らぬわ。いさぎよう切腹さっしゃい」
「アハハハ。なるほど、五千石はちと安う御座ったか。いかさま八百万石の御膝じゃ。そうすればゆうべの片膝は四百万石で御座ったのう。道理でふくよかなぬくみの工合、世にえがたき珍品で御座りましたわい」
恐るる色もないので
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